2018年1月10日水曜日

踊る旅人 能楽師・津村禮次郎

にいなにて
 正月の北方シネマ「踊る旅人 能楽師・津村禮次郎の肖像」を観た。
ざっくりですが、感想を述べます。

内容は、思っていたよりもずっと長く、ほぼ舞台裏、制作の時間をみせるものだった。それは過程(process)、対話、旅(journey)と呼ばれていた。

般若だよ
 ドキュメンタリー映画は、映像そのものは取材されている対象なのだけれども、観る者に具体的におもしろいほど伝わってくるのは、監督の言いたいことなのだ、と改めて思った。たとえば、言葉にして演説や発表するよりも、言いたいことが伝わってくるからおもしろい。蛇足だけど、政治家は街頭演説や公約発表をおこなうよりも、課題としてドキュメンタリーを自分で撮ってきてもらって有権者に見せる方が何考えているかわかっていいかもしれない。

最適な解を得ていくのに有効な「旅」という方法、それを鮮やかにやってみせる能楽師・津村禮次郎。この方法って、おもしろいしすごくない?この人はこんなふうにやっているんですよ、とたたみかけられる2時間だった。

裏は案外かわいい
 私もかつて、漁撈でもって世界の海を旅した人たちに話を聞き、その旅を可能にした技法について論じた(旅回りのテクネー)。この映画の旅に興味を持ち、旅をおもしろがり、旅を分析する過程には共感を覚えるところが少なくなかった。

あと印象深かったのは、映画の中で語る津村禮次郎も、ワークショップで語る津村禮次郎も極めて論理的に整然と話をするところだった。能の型とは、数学における数字や方程式みたいなものだろうかと思った。他者との対話を続けるのに必要不可欠なものである。

能の舞台自体は非常に緻密に構成されている。説明しがたいものを浮き彫りにするために、説明できるものに関しては、できるだけ簡略化し、明らかにしておくという徹底ぶりだ。ここで説明しがたいものとは、人の情動、狂気である。

CGよりも雄弁な能面
 津村禮次郎は、20歳前後から数十年をかけて能の型の習熟に徹底的に勤めてきたという。40歳ごろから、他の芸能との創作をはじめている。
あ、誰かににている。はんぞーに似ている!

自分の人生に置き換えてみて、数十年かけなければ習得できない型を会得し、それを自由に用いて他者と対話を行い、それによって新しいものを創出することができるのか、と問うてみる。しかも、それらすべてができてなおかつ、会得した型の技術に奢らず、軽やかに他者に対して気さくでありつづけ、自分の旅を楽しむ津村禮次郎のようになれるのだろうか。

帰り道、たまたま金沢で能装束を着せてもらったよ
 津村禮次郎になることは並大抵のことではない。時間もあまりないような気がする。しかし、そんなふうに一生をかけてできる生き方があるということを知った。今回、津村禮次郎に会うことができて、とてもラッキーだ。こういうことは、そうめったにない。フィールドでの僥倖も、そういう人との出会いにつきる。
ところで、月に一度、大学でドキュメンタリー映画を観ることができるなんてとても羨ましい。今回観た北方シネマ予告編の紹介の映画も、どれも全部観たいと思った。とくに、「抗い」。それから、ヘンな人物を直観的に見出して追っかけている感がひしひしと伝わってくる「息の跡」。いったい何かわからない故に、見てみなければと思ってしまった。
(きのこ)