2026年9月27日日曜日

とこしずめとむすびのまつり(後編) 大介

 9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかった。しかも制作の作業ができるメンバーは、私を含め5名だけ。そのうち3名はほぼ初心者だった。開催に当たって未確定の要因もまだ残っていた。

テントは宿泊用のドームもふくめて、出演者とお客さん用の3張を持ってきたが、結局、宝湯がある鵜飼の作業現場から車で30分ほど離れた上黒丸のボランティアキャンプの宿泊施設を借りることにした。作業効率は落ちるが自炊はしやすくなる。

奥能登に到着したその日のうちに、最終的な開催場所をきめるため鵜飼い近くの海岸を歩いた。頭の中にはいくつかの候補があったが、事前に電話で管轄の行政に問い合わせた時の反応はあまり良くなかった。アクセスが良く海岸も整備された見附島周辺には、奥の方にひとつ有力な場所がみつかった。近隣を管理している会社を訪ねたら翌朝来てほしいと言われた。

次の候補は、宝湯から北側の海岸だった。グーグルマップで見ると砂浜が続いているが、すでに震災後防波堤工事が始まり、砂浜が残るところまでは宝湯からすこし歩く必要があった。さらに駐車場をどこかで確保しなければならない。

海岸部はどこも震災後の沈降で、以前見たときよりもずいぶん砂浜が少なくなっていた。

宝湯の前の本館の更地が、最も使いやすい場所だったが、足下には震災のがれきが落ちており、居心地のよい空間を作るためには、舞台と観客席を整備する必要があった。

翌日16日、再び見附島を訪ねると会場としての使用を断られた。有料のイベントであることが理由だといわれた。事前に地元の人から話を伝えており、大丈夫そうだと聞いていたのだが、候補地から外すしかなかった。

こうなった以上、すぐに判断をしなければならない。朝のイベントや足下のことまで考えれば海岸は理想的だったが、もともとの原点に戻り、お湯が湧き出ている宝湯の本館跡を会場にすることにした。

いそいでパソコンがある上黒丸にもどり開催場所の決定をネットで広報し、あわせて出演者とすでに申し込みをしてくれている参加者にも伝えた。さらにその日の午後は現地での新聞の取材があり、再び鵜飼に戻り、場所の決定を伝え、ホームセンターで作業のための資材を購入した。

もたもたする余裕はなく、17日には朝から制作の作業がはじまった。上黒丸で竹藪を紹介してもらい、半日かけて竹きりと加工の作業に入る。そして、軽トラを借りてそれを鵜飼まで運び込む。

会場のがれきは思っていたほど悪い状態ではなかったけれど、一晩過ごせる快適な場所にするためには、それなりに手を入れる必要があった。折からの雨で土壌も湿っている。台風が近づいてきており秋雨前線を刺激し天気が心配だった。日に日に風も強くなってきている。

18日には会場に運び込む土を手配することになった。私たちの手には負えないので、これも上黒丸の人たちに助けてもらう。震災で土砂崩れが起きた北山の復興現場に大量の土があるので、それが使えるかもしれないといわれ、現場まで連れて行ってもらった。

地下30メートルから掘り出あれた土は、かつての火山灰が風化してできた真っ白なカオリンだった。とてもきれいな土だけれど粘土質で雨に弱い。焼き物を焼くにはふさわしい。

何カ所もの作業場を見てまわり、比較的石が少ない山土を選んだ。工事の人たちも、どうせ捨てる物だから持って行くのはかまわないといってくれた。土の確保はできた。

問題はどう積み込むかと、どう運ぶかだった。会場の面積を考えると最低でも4トンは必要だった。仮にトラックは手配できても、人の手で土を積まないといけない。

山から下りて来る途中で、崖を切削している現場に通りかかった、案内してくれた人が、ダメ元で聞いてみようかといった。よく知っている人だった。こちらの事情を説明すると、もっといい土があるので、午後であれば時間があるから運びだそうと言ってくれた。いったん拠点に戻り、昼食をとり、作業の分担を決めて上黒丸から鵜飼の宝湯にむかった。

午後いっぱいトラックの横に乗り、珠洲市内の採土場を回った。砂地の良い土はあったが人の手で運び出すのはむつかしかった。結局、積み込みに重機が使える現場から土を運び出すことになった。

とりあえず水たまりができている窪地を埋めていくことを優先した。土を手に入れるために、工事の人も含めて、今日一日だけで10人以上の人に話を聞いてもらった。だれひとり「できない」とは言わず、「どうすればできるか」を考えてくれたのがとても印象的だった。

自分から動き「村人に話しかける」と新しい道が開けていく。人から人へとつながっていくようすは、まるでロール・プレイイング・ゲームのようだった。

土を会場に運び込むと土木工事が始まった。屋外インスターションの基本はまずは土木工事なのだ。2021年の上黒丸小学校での作品制作を思い出す。もし、会場が砂浜であれば必要のなかったはずの下準備で、丸一日、時間と労力を奪われる。

19日には、ようやく五右衛門風呂を設置して周りの環境の整備をはじめた。同時に現地入りしてくる出演者への対応や、参加者への案内や宿泊用の準備も進めなければならない。人数が読めないので駐車場も多めに確保する。

宿泊用のドームは15人ほど泊まれるし、個別の大型テントももってきていた。さらに朝まで残るつもりの人たちには、基本的には車中泊か各自でテントを用意してもらうように事前にアナウンスしていた。

しかしここで、震災後はゲストハウスで生計を立てている宝湯が、かき入れ時のシルバーウイーク中にもかかわらず、イベント当日の宿泊客をとらず、テントに泊まれない人たちのための部屋を無料で用意するといってくれた。

本当は、宝湯の部屋の利用も含めての支援のはずだったのだけど、逆に私たちが支援してもらうことになってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

すべてが同時進行で5人の実働メンバーはフル活動だった。日が暮れるまで作業をして、宿泊拠点に帰り夕食をつくる。その合間に、広報や会計の整理をする。

せっかく能登まできているのに上黒丸の人たちとゆっくり話をする時間もなかなかとれなかった。それでも夜になると宿に遊びに来てくれたり、朝の作業前はみなでラジオ体操したり、合間の時間に家を訪ねたりと、できるかぎり村の人たちと会うようにした。

ダンサーの舞台や、炉端焼き用の炭や焜炉の手配をどうするのか、未確定な懸案事項については、夜のうちに複数の可能性を考えておく。

20日、もう明日にはイベントが始まる。昼前に三崎の材木屋さんが焜炉を持ってきてくれた。舞台用の手頃な板材を探していると話をすると、木片のチップはどうだろうかと提案してくれる。3トンのトラックを借りてチップを運ぶことにした。土よりもずっと軽いし柔らかい。トラックいっぱい積んで会場に広げる。

あわせて宗太郎さんが知人から畳の手配もしてくれた。多くの人のサポートに感謝しかない。椅子とテーブルにつかうための清酒ケースも届けられた。席はこれでたりそうだ。駐車場につかえる空き地を教えてもらい草刈りをする。

九州からの応援部隊が到着する。現場での作業はすでに一段落しているので、夕飯を依頼し、現場では当日にお皿代わりにする竹を割りながら、五右衛門風呂の排水のためのパイプが届くのを待っていた。パイプが届き、ここでようやく五右衛門風呂にお湯を張る。作業最終日のご褒美として、今日の最後にみなで入る予定だった。

しかしここで想定外のトラブルが発生。五右衛門風呂の栓を止めるために金属のパイプを打ち込み、温泉を入れたところ、風呂桶にひびが入り、一部が割れてしまった。

ためていた水が割れ目から勢いよく噴き出し、どうしても止められない。今晩中の修復は不可能と判断し、翌日の朝にホームセンターで修理用の資材を買うことにした。お楽しみのお風呂はイベント後にお預けである。メンバーは朝からのチップ運びや設営作業で汚れた身体のまま山に戻った。

21日、風呂桶の修繕が気になっていたので、早朝から動く。イベント中の作業分担を決めて、炉端焼き用の食材の手配と下準備のメンバーを残し、設営部隊は現場に急いだ。当日の朝から台風の風が強く天気が不安定だ。せっかく準備した会場も、ときおりふる小雨のたびごとに何度も撤収しなければらならず、そのあとまた設営し直すことになった。

とくにPA関連の機材はデリケートなので、最終的にテントをかりて設営し直すことになった。リハのために雨の合間をぬって音の確認をするけれど、前の晩に宿で確認していたはずの音出しの段取りが、現場ではなかなかうまくいかない。


夕方には雨も小やみになり、いよいよイベントがスタートした。ここまでくるともう誰にも止められない。台風の風はまだ強いが、五右衛門風呂には火が投じられた。

PAの不手際、進行のもたつき、炉端焼きの炭の手配の遅れなど、気づかない問題も含め、たくさん至らないところはあったと思うけど、プロの出演者たちはみごとにそれをカバーしてくれた。

厳かで力づよく、しかし愉快で楽しい祭りだった。世界中の神々(エナジー)がここに降り立った。宗太郎さんの最初の言葉が思いのすべてを語っていた。あの日、多くの命が奪われた、まさに震災の現場である荒野に、数年来のさまざまな逆境を越えて、私たちは今ここに立っている。

地震で失われた多くのものと引き換えに、私たちはまだ生きている。台風の風は夜半過ぎには覆っていた雲を飛ばし、空には月が現れた。寒さに震えた震災直後のあの日の星空に比べれば、今日の星空はなんと優しいことだろうか。

(イベントの内容については、ここのパフォーミングの詳細も含めて、ホームページと別稿で、あらためて書いておきたい)


最後に、以下は蛇足であり、たぶん私ひとりの問題である。

野研のメンバーもよくやってくれたし、上黒丸や宝湯のサポートは望んできた以上のものだった。できるだけ頼らずにやりたいと考えていた自分を恥ずかしく思い、臨機応変に動いてくれる地元の人たちにただただ恐縮するばかりだった。上黒丸の人たちにとって鵜飼は遠くてイベントには参加できないけれど、毎朝会うたびになにか困っていることはないか聞いてくれ、こちらが何かいうとそれが実現できるように人をつなげてくれた。

頼りながら助けあいながら、震災後の生活を乗り越えてきた人たちの優しさと力を、そこに見た思いがした。そして何よりも忙しい中で遠路はるばる駆けつけてくれた出演者の皆さんと、奥能登に集まってくれたお客さんには感謝の気持ちしかない。

とても素晴らしいイベントになったと私は思っている。もっとたくさんの人にみてほしかったし、自信をもって一つの再生の歴史を刻むことができたと思っている。

ただ作品作りと演出とその両方を同時に受け持った私が、それに集中できず、雑用と制約の中で思い通りに動けなかったことが、あくまで個人の思いとして心残りだった。

たぶん私がやらないといけないもっとも大事な仕事は、今回のイベントの依り代でありご神体でもある五右衛門風呂を納得いく物にする作り込みだったのだけど、結局、ほとんどそれに時間をかけることができなかった。

ドームは荒れ地に生える雑草や今も海辺に散らばる枯れ木や廃材をからませて、震災を乗り越えてもまだそこにあるような、もっと野性的な存在であってほしかった。五右衛門風呂も、この神が降りるイベントの主役としてこれまでにない表現を創りたかった。

このご神体と、その借景となる荒れ地にたつ斜めの電柱。舞台と客席の関係性と距離、もうひとつの竹の作品とPA用のテントの配置、そのすべてを納得がいくまで検討できる余裕があればよかったと悔やまれる。

せっかく借りられた畳もうまく生かせず、結果的に客席の位置が中途半端になり、あまり美しくないデッドスペースが生まれてしまった。炉端焼きの場所もすこし舞台から遠すぎたかもしれない。逆に中心のドームの横の空間は思い切ってもっと広げ、暗闇に浮かぶ五右衛門風呂の孤高感を演出すべきだった。夜になることを想定し、傾いた電柱も光の中に浮かび上がらせることだってできた。赤い提灯の明かりは逆光がまぶしすぎるので、あらかじめ用意していた布を巻いておくべきだった。もう一つの竹の作品の意味づけも不十分で、結局はただのイルミネーションとして曖昧なままごまかしてしまった。

繰り返し書いておくけれど、たぶんこれは私ひとりの問題である。他の人はもっと別のことを感じていたのかもしれない。

公演の最中に、せっかくのリソースを生かし切れていない、自分の力不足を感じていた。でも一方でたぶん今回のように余裕がない中で、もしこれ以上自分の思いを通していれば、たぶん多くの人たちにさらに負担をかけてしまっただろうとも思っていた。

イベントの前日に出演者のひとりからSNSを通して投げられた言葉に私はとても傷ついていた。すでにその言葉は一方的に削除されてしまっているが、その人に、私の思いをうまく伝えられなかったことが、そのすべての原因だったと思う。この人からはきっと信じられていないのだろうと感じた。けれどもはや思いを伝えることすらできなかった。

たとえ演出や作品として、こうしたいという強い思いが私にあっても、だからといって決して誰かを苦しませるために、このイベントをしているつもりはない。それぞれの人がベストなパフォーマンスができるように準備するのも制作の仕事だと思っている。最高のタイミングで最高の結果を生み出すために、相手に必要なものを求めるときに生じる葛藤は、つねに意識している。

9年前の歴史にはじまり、蛇足も含め長々と裏話を書いてしまった。

ひとつのイベントが成功に終わったときには、こんな裏話は必要ないことはよく知っている。どんな思いがあろうと結果として、生まれた作品やイベントの内容そのものがすべてであり、あの瞬間に立ち会った人にそれが伝われば良いのだと思う。

あの震災の日に絶望しながら見上げた星空や、その土地で亡くなった多くの人たちの悲しみ、生き残った人たちのつながりと、そして立ち上がり前に進もうとしている希望。

翌日の朝日を見ながら思った。どんなに人が演出し作品を作り込もうが、この日の出の美しさにはとうていかなわない。

荒涼とした震災後の野原の中で、台風の風や、瓦礫が散らばる地面や、虫の鳴き声や、月や星や、時折降る雨ですら、実はすばらしい演出になっていた。屋外でやると決めたときから、アンプや電気もいらなかったかもしれない。あの寒い日々には電気もなかったのだから。

もし震災の夜に思いをはせるのであれば、大地から湧き出す熱水のように、もっと粗野に任せて、自然を信じて、あるものをただあるように伝えればよかったのかもしれない。

もしかすると私がもうすこし出来ていれば、という思いこそ間違っていたのかもしれない。私ひとりでできることはたかが知れている。自然を信じていなかったのは、私だったのかもしれない。

とこしずめとむすびのまつり(中編) 大介

 2017年の芸術祭の際に、四代目宝湯当主の橋元宗太郎さんを私たちの五右衛門風呂作品に招待し、いつかこれを宝湯で実現しようと約束した。

2024年の元旦に宝湯の本館は倒壊し、2025年、瓦礫が撤去された更地にこんこんと温泉が湧き出し、そこに五右衛門風呂の露天風呂を置いた。そのとき生まれた「エナジー風呂」のイメージをもとに、タブラ奏者のU-zhaanに出演の依頼をしたところ、1年後の2026年にチャリティフェスが実現できる可能性が出てきた。

それから1年かけて能登と連絡を取りながら、この企画を進めてきた。宗太郎さんは精神的にも身体的にも、そしてなにより経済的にとても苦しい中で、やりとりが途切れがちになりがならも実現にむけて前向きに協力してくれた。

しかしこの企画には、できるだけ現地の人に負担をかけたくなかった。自分たちでできる範囲でするしかないと覚悟はしていた。とくに宝湯のお湯を提供してくれる宗太郎さんには、これ以上の負荷はかけられないと考えていた。

1年間かけて事業予算として震災復興のためのさまざまな助成を当たったが、あてにしていた助成資金はことごとく落ちてしまった。助成を受けながらチャリティをするときに、チャリティ収入よりも助成金額の方が大きくなるのは矛盾しているという指摘もされた。今考えると、おもいきって無料イベントした方が良かったのかもしれないが、それでは助成の条件である自己資金のめどがたたなかった。

結果的にようやく取れたのが、北九州市立大学の同窓会から受けた学生たちの活動のための助成金だけだった。別の団体とのタイアップも企画そのものの持ち込みも断られ、最終的には野研からの持ち出しと、交通費を時期を前後する別の事業から捻出することで費用をカバーした。それでも観客数次第では赤字前提は変わらなかったが、そもそもの目的が能登の復興支援とチャリティが目的であるので、これも私たちからの寄付と考えることにした。

そうして、かならずしも順調とはいえないまでも、2026年の5月までは9月のイベント開催をゴールに準備を進めてきた。この時点であとは、イベントの詳細をつめて会場の確定し、機材の調達、スタッフの確保、そして告知をしていくだけになっていた。

しかし、7月になってどうしても鎮座DOPENESS、環ROY、そしてU-zhaan の3人のスケジュールが合わなくなり、何度も調整をしたのだけれど今年の出演が難しくなってしまった。運営資金の不足分を、イベント参加費から補うおうという目算も同時に崩れてしまった。

まだ告知を始めていなかったので、規模を縮小し、前年度と同様に身内のためだけのイベントにすることも考えた。急遽、予定していた告知を止めた。別の可能性もいろいろ考えたけれど、宗太郎さんも楽しみにしているイベントそのものを中止するつもりはなかった。しかし、どのようなやり方をするにせよ、準備期間はほとんどなかった。

同窓会からの学生活動の助成は取れていたので、いったんすべてを白紙に戻して、学生たちが主体の企画に変更した。もともと同窓会からの学生活動の助成金は3人分の旅費の予算にあてていた。出演者に使える費用はここしかない。低予算でできるように、短期間で準備をし直した。

この条件では、能登の被災地に対する強い思いと心意気だけで来てくれる人でなければ、難しいだろうと思った。これまで野研や大學堂でおせわにになり、以前の奥能登芸術祭でのライブに駆けつけてくれた何人かアーティストに声をかけた。

準備してきたの企画の再現というよりは、来てくれる出演者に合わせて、すべてを作り直すことにした。どうしたら被災地の外から人を呼べるのか、どうしたら今の現地の状況を参加した人に感じてもらえるのか、イベントの意義を伝えることから、もういちど検討をはじめた。

こうして大地に寝転がりゆるゆると夜を過ごす「エナジー風呂」は、華やかな祭りから静かな鎮魂へと続く「地鎮(とこしずめ)と産霊(むすび)の祭礼(まつり)」となった。

出演者のめどが立ち、日程の調整もなんとかできた。こんな厳しい条件とスケジュールの中で、引き受けられる人も多くはないだろうと予想していたが、思っていたよりも多くの人が賛同してくれた。とてもうれしかった。

けれど、その結果、その人たちの旅費だけでも予算が足りないのは明らかだった。しかもチャリティの趣旨からも、できるだけ開催収益は被災地に回したい。全体の経費を減らすために私たちの作業のための滞在は宿泊はテントを使い、乗り合いで移動し交通費も可能な限り押さえる方針に決めた。野研の卒業生たちや大学同窓会の北陸支部も活動のサポートを申し出てくれた。

そんな中、8月6日からは京都でのリノベや、そのあと沖縄と大阪と名古屋での学会発表やフィールドワークの予定が立て続けに入っていた。

京都にいる10日間のうちに出演者にはプログラムとスケジュールの確認をしてもらい、小倉にもどると1日でホームページと本チラシを仕上げた。翌日からの沖縄と名古屋の予定がはじまると私はまた動けなくなる。最終的な会場が決まらないまま、チラシを入稿するしかなかった。まさに綱渡りでぎりぎりのスケジュールだった。

入稿を終えると沖縄に旅立った。私や野研の沖縄部隊が不在の間は、小倉にいるメンバーが出演者とのやりとりや、チラシの郵送、機材の調達準備を進めることにした。現地とやりとりしながらも、最終的な開催会場が決まらないまま、能登行きの日を向かえることになった。

そうして9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み、小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかかった。未確定の要因もさまざま残っていた。

2026年9月25日金曜日

とこしずめとむすびのまつり(前編) 大介

====前編

あれからもう11年になる。2015年の奥能登でのアートプロジェクトで「上黒丸越冬隊予行演習『おこも丸』」を制作した時に初めて珠洲の宝湯を訪ね、銭湯の上にある大きな宴会場と迷路のような不思議な建物に魅了された。何度か通ううちに知り合いになった四代目当主の橋元宗太郎さんとともに、作品完成の打ち上げをこの宴会場でおこなった。舞台を持ち、かつては500人のお客さんも入ったことがるという大広間で、夜を徹した愉快な大演芸大会だった。

このときの経験から、次の奥能登では水とお風呂をつかった作品をつくろうと思った。奥能登で畑の隅などに放置してある五右衛門風呂を探して歩いた。

2017年の奥能登国際芸術祭では「海のこと山のこと在郷まわりと五芒星」と題し、海と山の交流をテーマにインスタレーション作品を制作した。作品展示の現場近くに借りた古民家にはお風呂はなく、作業中も会期中も、作品の一つである五右衛門風呂を実際に使いながら生活した。夕方になると湧き水を引き、薪を焚き、湯を沸かした。日が落ちると、真っ暗な山中に、星空と自分しかいない完全な露天風呂ができあがった。

宗太郎さんもこの現場を訪ねて来てくれ、五右衛門風呂に入り、湯船の中で360度見渡せる星空を満喫し、「いつか珠洲宝湯でもこの五右衛門風呂をやりたい」と熱く語った。このときは、すぐにでも実現できると思っていた。しかし、この約束を果たすために、このあと実に9年もかかってしまった。



芸術祭の作品群のひとつとして宝湯が注目され、宗太郎さんも宿泊のための施設作りにいそがしく、2021年の芸術祭では、コロナのために人の行き来も難しくなってしまった。私たちはほとんど里には下りず、山にこもって制作をしていた。軽トラで風呂桶を運ぶだけなのに、そんなことはまったく許されない雰囲気だった。

そして2022年には、小倉の旦過市場で火災が起こり、大學堂が解体され、大學堂再建のための怒濤の2年間、私たちは能登に行くことすらできなかった。

そして2024年の元旦に忘れられない能登の大震災が起きた。宝湯のある鵜飼の地は沈下し、そこを津波が襲った。もともと干満差が少なく東向きの穏やかな内海に面したこのあたりには、岸辺のギリギリまで家屋がひしめいており、波のみこまれた家々はひとたまりもなかった。

地震から8ヶ月たち、宝湯を訪ねた私たちは、崩れ落ちた本館のがれきを前に、元旦の夜のことをうつろな表情でかたる宗太郎さんに会っていた。宗太郎さんが、財産や建物を失ったことよりも入浴中にひとりの常連客が亡くなったことを悔やんでいたことが、私にはとても強く印象に残った。


それから毎年、能登に通った。2025年には、宝湯のがれきはすべて撤去され、そこは更地になっていた。しかし遅々として進まない復興の中で、宗太郎さんは多額の借金を抱え、信用していた従業員にだまされ、生活のためのオーバーワークが続き、人間不信におちいり身も心も苦しんでいた。

野研もコロナ以降、これまでの能登での活動を知るメンバーも少なくなり、新しい世代はなかなか育たなかった。能登の状況も大きく変わり、私たちを知る人々の何人かは、この地を離れ、多くの人が亡くなっていた。

宝湯の再建と上黒丸の暮らしのために、震災前からこの地を知っている私たちができることは何だろうか。現地を回りながら、ただのボランティアや、お手伝いではなく、なにかこの土地の未来につながることをしたいと、ずっと考えていた。

建物が撤去された宝湯の更地には、こんこんとお湯が沸き出していた。地震後は自噴するほどに湯量が増し、地質学者の調査では地下30キロメートルにある太平洋プレートの沈み込みから生じた水に溶けたマントル起源物質を含む深部流体成分が確認された。地震はたくさんの悲劇を生んだが、温泉は途絶えることなく生きかえっていた。

荒れ地の中に五右衛門風呂をおいてみた。パイプから流れ出す薄水色の温泉は、ほのかに硫黄の匂いがして柔らかかった。震災以降、気持ちがふさぎがちだった宗太郎さんもとても楽しんでくれた。最高の温泉だった、自分たちがこんなに楽しいのだから、みんなもきっと楽しいに違いない。

あらためて宗太郎さんとのあのときの約束を果たしたいと思った。あたらしく湧き出した温泉と一体になった五右衛門風呂を、ひとつの依り代としたシンボリックなアート作品をここにつくり、それをこの地の再出発の起点にしたい。

この作品は現地の人たちのためでもありながら、それよりも金沢や、大阪や東京からここに人が集まること。そしてここに集まった人々が、今の能登の状況を自分の目で見て、湯を通して身体で感じるという願いをこめたものにしたいと考えた。だからこそ自分たちの楽しみだけではなく、たくさんの人を呼べるイベントにしたかった。

傾いた電柱だけがのこる震災の更地に、ぽつんとひとつおかれた五右衛門風呂を取り囲みながら、そこでくつろぐ百人をこす人々。いろいろな場所で自然発生的に歌や踊りが始まり、秋の夜長を朝まで、ゆるりゆるりとたのしむ祭り。

ひとりの野研メンバーが口ずさんだエナジー風呂という曲が、そのイメージに重なった。2019年、坂本龍一、鎮座DOPENESS、環ROY、そしてU-zhaanによって生まれた「エナジー風呂」。すぐに「50年近く生きてきて、今がいちばん風呂好き」とかたるU-zhaanに連絡を取ると、「1年後なら3人で行けるかも」という返事をもらった。「十分な謝礼は出せないけど、温泉の復興支援のためにチャリティの気持ちで来てほしい」と伝えた。なにかが動き始めた。

特別な予算のあてもなく、宗太郎さんも再建事業の先行きが見えない不安を抱える中で、コロナ以降の世代交代に苦しみながらこれまでになく弱体化している野研メンバーで、これだけのイベントができるかどうか不確定な材料はたくさんあった。

でも、やるのであれば今しかないだろうと思った。まだ1年の準備期間がある。その間に、能登の状況はすこしは上をむき、新しい野研のメンバーも育てていけるかもしれない。さまざまな助成を申請すれば、あるていど事業予算を確保できるかもしれない。宝湯の再建事業を前に進めるためにも、もし実現できるのであれば、野研の企画ではなく、ほかの団体との共催か、最悪、事業そのものを譲ってもかまわないと思っていた。

この期を逃したら、2017年からの約束を果たすことはできないかもしれない。


2026年9月13日日曜日

2026夏:沖縄旅(写真は後で追加するので、ひとまずテキストだけ)

 11泊12日の沖縄の旅。

北九州からだいすけ、小籠包、ボンゴ、きぞく

野研沖縄支部のきのこ、なかんだ、ピータン、げっちょ先生、ノエ

研究会メンバーのきりゅうさん、ホリさん

学会に参加したあやさん、かめい先生

いろんな人が出たり入ったり、動いたり

今回の旅は、大きく分けると4期ある。

ラグジュアリー1期、きのこ期、ラグジュアリー2期、学会期


私にとっては、とにかく運転が怖かった。

運転が荒いことで有名な北九州や「名古屋ばしり」などと揶揄される名古屋でも運転していたのだけれど、そして、それぞれに怖いとは思っていたけれど、沖縄はまた別の怖さがあった。

交通量が多いのに、道が狭い。駐車場が狭い。交差点が複雑で角が鋭角だったりする。細い道や道路脇から出てくる車が予想以上にグイッと出てくる。いちいちドキッとして、心臓に悪い。ついでに京都のイケズ石のように置いてある石敢当にマジムンなみにプレッシャーを受けてしまう。ドキドキ


【第1ラグジュアリー期】

台風の影響で予定していた26日には出発できず、27日に沖縄へ。

久しぶりの飛行機、久しぶりのピーチで荷物の預け入れに手間取って、ギリギリで乗り込む。


到着したら、レンタカーを借りて宿泊先へ。壁やらルームフレグランスやら随所にEM菌が使用された発酵をテーマにしたリゾートホテル。

荷物を置いて、ティーファクトリーへ。アイスティーをいただきながら、ティーブレンダーの内田さんから沖縄とスリランカの赤土が紅茶作りにいかに適しているかといったお話を聞く。

茶園に移動して茶摘みをする。明日、この茶葉を使って紅茶作りを体験できる。せっせと摘んでると雨が降り出して、茶摘み終了。もっとたくさん紅茶を作りたいから、もっと摘みたかったのだけど。

今回の沖縄は、ずっと雨が降ったり止んだりでお天気がすっきりしない。日差しが強くないので過ごしやすいとも言えるけど。

恩納村のリゾートホテルに移動して、夕食。紅茶と料理のペアリングを体験する。3つのワイングラスが並べられ、それぞれに違う紅茶が注がれる。アイスでもホットでもなく常温の紅茶。しっかりと茶葉の味を引き出さないと、常温では誤魔化しが効かないと思う。逆にいえば、それぞれの茶葉の味を引き出しておけば、常温が一番味の違いを体験できる。

料理と紅茶のペアリングや内田さんのお仕事について話題は尽きない。


28日。昨夜からきのこも合流して、発酵ホテルの自慢の朝ごはんをしっかり食べたら紅茶作りとペアリングのワークショップへ。一晩かけてしっとりさせた茶葉をそれぞれ揉み始める。手が違うと味が違うとか。そして、手から漏れた茶葉は、固かったり紅茶に向かないから漏れたままでいいと言われたけど、けちんぼ根性で、もう一度拾って揉み始める。揉み終わった茶葉を見比べて、内田さんが余分な茶葉を取り除いてくれた人のお皿に乗ってる茶葉は綺麗なのに対し、私の皿には明らかに揉みきれてない茶葉が載っている。けちんぼ根性を出すとソンをする。何度も後悔するくせにまたやってしまった。

揉んだ茶葉をオーブンで乾燥させている間に、紅茶のテイスティング。複数の紅茶と烏龍茶をストレート、砂糖を入れたもの、ミルクを入れたものと飲み比べる。内田さんが言うように味が変わる。気がする。誘導されているだけか・・・内田さんが解説する前に、ブラインドで体験したい気もするけど、大きくはずしそうで言い出す勇気はない。

テキストと茶葉を購入してティーファクトリーを離れる。


【きのこ期】

28日の夜は、きのこの職場の美ら島自然学校がある名護市嘉陽地区の豊年祭へ。シーシーと呼ばれる獅子が古くなったので作り替えられることになり今年の豊年祭で引退なのだとか。「ありがとうシーシー」というムードが溢れている。地域の人たちが豊年祭の定番の演芸を披露してくれる。普段は嘉陽に住んでいない孫世代も帰ってきてステージに立っている。小学校は廃校になって美ら島自然学校になっている。受け継ぐ子供世代は少なくて、ステージの中心的な踊り手の何人かは、地域外に出た子・孫たち。嘉陽地区の区長さんは、はでぴによく似ている孫世代のIターン。65年ぶりにシーシーを作り直すということは、伝統的なお祭りをこの先何十年も続けていくという地域の人たちの想いだろうと思う。地域は新陳代謝をしながら、柔軟に緩やかに祭りをハブにしてつながっている。


29日、台風の影響でうねりのある海の様子を見ながら泳げるところを探して海へ。初海のボンゴと海ではチキンハートのロンポーとチャプチャプコース。靴を忘れたロンポーに自分のを貸したので、ギョサンしか履いてない状態になっているので、チャプチャプコースでも泳げないことに気が付く。

夜は山原の谷でキャンプ。

湿度が高いのでなかなか薪が燃えない。それでも焚き火を囲んでご飯を食べたりおしゃべりするのは、やっぱり楽しい。

夜には雨が降り出す。


30日、濡れたテントと海道具を美ら島自然学校で洗わせてもらって、干してる間に浜を散歩する。げっちょ先生と合流。げっちょのお仕事については多くを語られないけれど、なんだか忙しくなってしまったとかで、お疲れの様子。浜を散歩しているといつの間にかげっちょの手にはアダンの枯葉のようなベージュ色の弧を描いたものがある。数日前に打ち上がったという鯨の骨。埋められていたらしいけど波に攫われて海岸に散らばっている。生臭い油の匂いを頼りに探してみる。ボンゴは両手一杯に拾っている。背骨や首の骨は見つかったものの、狙いの頭部は見つからず。

集まった中ではボンゴが見つけた首の付け根の骨が一番おもしろい骨かなと思う。

私は小さな貝を2つ拾う。そのうち一つはチャームに加工したいイメージができている。いつ実現するかは知らんけど。


31日、石焼をしに嘉陽の浜へ。石と薪を集めて、石を焼く。その間にちょっと泳いだり。今回は、自分の装備を付けてるので、チャプチャプコースで小さなさかなと戯れてみたり。

鶏も芋もカボチャも石焼にすると美味しい。


1日、堀さんと内田さんと合流して海洋文化館の見学。海洋文化館は3回目くらいかな。ここでアダンサミットをやったときに、けっこうちゃんと見学たのだけど、展示数も多いし、自分の知識が増えたりして、いつも何かに気がついて驚く。今回は、タパの柄とベッコウ細工が綺麗だと思った。

アダンサミットのときに野研のみんなで何泊かしていた備瀬を散歩したら、観光客が多くなってたり家が建て替わっていたりと雰囲気が変わっていました。相変わらず、写真を撮れば映える風景が点在しているけど、なんだかちょっと落ち着かない。


【ラグジュアリー2期】

2日は、読谷にある金城実さんのアトリエへ。映画監督の三上知恵さんもアトリエで待っててくれる。目的は金城さんのかくし念仏の話を聞くことと三上さんが制作に関わっていた辺野古の問題を扱ったテレビドキュメンタリーをみること。

金城さんの先祖崇拝では権力と戦えないという話。「今の私の生活」を守りたいという想いは、戦争に反対するシンプルなロジックだと思いつつ、それだけでは、あるいは戦争に加担する側にまわってしまうかもしれないとも思っていたけれども、その不安のスケールを広げて考えると、金城さんの気づきと重なるかもしれないと思いました。

三上さんの映像を観て、あれ?と思う。1996年ごろの映像。確かにこの頃はこうだった。沖縄の怒りが大きくうねって、日本を動かしていると思っていた。普天間は返還され、沖縄の負担を引き受ける覚悟が問われてると思っていた。そして、沖縄と同じく大陸との前線にあたる福岡はなにかを負担することになるかもしれないと思っていた。その頃の北九大は、たびたび隣の自衛隊に離発着するヘリの音がして、たびたび空砲が鳴っていて、そんなリアリティがあった。いずれにしても何かが変わると思っていた。まさか、こんなふうに30年間も事態は膠着して、ただただ自然破壊だけが進むなんて思ってもいなかった。


夜は、台風も心配だったのでテン泊を諦めてピータンハウスへ。

ピータンは、旦過の大學堂の2階を改装したときに参加してくれた建築系メンバーの一人で、いろいろあって、今は沖縄で建築事務所を構えている。コンクリート打ちっぱなしのオシャレな3階建てのビルの1階が事務所で、2階と3階は民泊施設として使われている。今回は3階の1LDKの空間に泊めてもらった。LDの壁一面が大きな窓になっていて、全部開けると壁のない空間ができる。お風呂の壁も一面窓で、お部屋とお風呂から夜景と海が見える。うまく表現できないけど、なんだかすごい。カーサブルータスに載ってそうと言えば伝わるかな、伝わらないか。


3日は、台風の影響で雨が断続的に強く降る。土砂降りの雨を避けつつ、佐喜眞美術館へ。入り口で黒田征太郎さんの作品に出会う。チケットも黒田さんの絵が使われている。明るい太陽の下、鳥が緑を咥えて飛んでいる。美術館の人の解説を聞きながら沖縄戦の絵をみる。

お昼は、ナカンダおすすめの台湾料理屋で小籠包とルーロー飯を食べる。駐車場にはレンタカーはほとんどなくって、店内は地元の人たちでいっぱいの店だ。今回の旅は、野研の沖縄メンバーおすすめのお店にいけるので、あたりの店が多い。沖縄メンバーの舌は信用できる。

雨が少し落ち着いている時間にチビチリガマで金城さんの作品をみる。ガマの中には入れなくなっていた。沖縄戦の現実を伝えたい気持ちと自分の家族に穏やかにねむっていて欲しい気持ちが両立できない苦しさを想う。

ピータンのラグジュアリールームで夕飯の準備をしながら、だだ、ろんぽー、ボンゴが出演しているチーカーのFM読谷の番組を聞く。きりゅうさんが合流して、ナカンダとチーカーも来てくれて、にピータン事務所でご飯を食べる。


4日、ピータンハウスをあとにして、今夜からの宿は、あがり浜のノエの民宿へ。その前に江上さんと小島さんのお宅で昼食をいただきながら、楽しいおしゃべり。江上さんの話題は豊富で、沖縄の知事選やインドネシアの生活、コロナ禍以降とAIの発展した現在の大学教育のことVIVANTの阿部寛のことまで。ゆっくりと食事の時間が進んでいく。食後に江上さんの織物のコレクションを見せてもらう。布好きの私はちょっとテンションが上がる。手紡ぎ、手染め、手織の布は繊細さと力強さがあってとっても素敵。だけど、高価なものだし、ひとまず自分には使い方が思いつかなかったので購入は見送り。


【学会期】

夜はノエのお宿のある東浜へ。東の浜と書いてあがり浜、沖縄風にはあがい浜。日が上がる浜なんだね。宿のスタッフさんやノエの家族、なかんだかりも合流して晩ごはんを食べる。瀬戸からあやさんとかめい先生も到着していよいよ学会へ。


5日は、今回の旅の目的である日本子ども学会初日。子ども学会は、小児科医や発達心理学者とか教育学系とか子どもに関連するいろんな分野の研究者が集まる、比較的こぢんまりした学会。小児医学も発達心理学も教育学も保育学もそれぞれにメイン学会があるのだけど、学際的な研究やシンポジウムの発表はやりやすい学会かなと思う。


6日は、9時から90分のラウンドテーブルセッションで、幼稚園での研究についての報告をする。だいすけ、ほりさん、きりゅうさん、私からそれぞれ報告をして、総合ディスカッション。私が司会をしていたけど、ディスカッションの時間が取れなかった。終わった後に、私からのまとめをせずに、すぐディスカッションに入ったほうがよかったとだいすけからの指摘。そうだね。反省。次の保育学会でのシンポでは、気をつけよう。

あやさんとかめい先生から、この発表内容を幼稚園の職員にも聞かせたいというリクエスト。11月の研究会でも話をすることになった。先生たちの反応が楽しみ。


この日もノエのおすすめのそば屋でみんなでもずくソバなど食べて、沖縄のだいたいの予定は終了。


7日は夜明け前から大阪に出発する人たちを空港に送り届けて、自分の飛行機の時間までひとやすみして、レンタカーを返したら沖縄の旅は終了。


このほかにも、きのこのおすすめのおいしいパン屋でパンを買ったり、初日に入ったソバ屋が案外あたりだったり、おいしいインドネシア料理やタイ料理を食べたり、食べることにまつわってそのとき話したこととか、気づいたこととか、書ききれてないことがたくさんあった。ぎゅうぎゅうに体験が詰め込まれた沖縄旅だった。

2026年8月24日月曜日

大師のごとく

 夏の盛りに京都に向かうのも、もう4年目だ。車窓から草いきれが匂い立つような山々を見つめながら思った。

今年は秋からの留学を控えて大忙しで、そのうえ沖縄や能登まで夏休みいっぱい計画が詰まっている。これまで散々遊び尽くした京都は遠慮しておこうと思ったが、みんなの誘い口に乗せられてまんまと貴族カーに便乗していた。私もやってきたことだけれど誘う方は気楽なものだ。車に乗せられてる方も。

出発の朝

 到着した次の日の朝、「来週zoomで話そう」と受け入れを打診したイギリスの教授からメールが届いていた。実質、受け入れる人材かを見定めるインタビューだ!受け入れ先を探し続けてきたこの数ヶ月のイギリス英語の悪夢が甦る。壁にペンキを塗りながら、あるいは床の水平を取りながら、私は1週間のあいだインタビューのことで頭がいっぱいになっていたのだった。

床の水平も繊細な作業

 経験上、リノベで1番楽しいのは壁に漆喰を塗る作業だと思っていた。ぐにょぐにょ部屋の左官の群れに加わった時、漆喰が3年前より固くなっていることに気がついた。もともと私は塗装が得意ではないけれど、私が手がけた壁はいよいよ深刻な事態に陥り、漆喰補給係に交代した。漆喰作業に求められるのはアート的感性というより職人的器用さであると、「ケーキの生クリームを塗るみたい」と語るヘイチクのなめらかな壁を眺めつつ実感する。

技量の差があらわれる

 そんな散々な状況だったから、漆喰の翌日に階段の展示を始めたときは楽しかった。梱包作業のときは楽しむ余裕もなかった貝殻や彫り物を並べていると、その造形の細かさや滑らかさに心惹かれた。

貝殻をひとつ割った

最初に手をつけたバッグの展示は最も悩んだ部分のひとつ。ただ真っ直ぐ飾るだけでは階段のかたちを活かせなかったので、できるだけリズムをつけるように心がけた。ポシェット型のバッグが多かったので、まず3つに絞って小さいものから斜めに並べた。上下にできた空間には、長方形の比較的大きなバッグを配置して、形や色のリズムを変化させる。蒐集された地域も意識しながら、反対側の壁に帽子や団扇を並べていく。


リズムを感じろ

 展示をはじめて2日目の夕方、イギリスの先生とのミーティングがあった。画面に映ったのはイギリス英語の上品な老婦人だった。
「Do you have any questions?」
自己紹介を終えて研究テーマについてひととおり話した後、いきなりの質問タイム。動揺してこちらも直球に返す。
「Could you be my supervisor during my stay?」
「OF COURSE! Fabulous!」
2、3の質問を経てミーティングは5分ほどで終了した。「なぜこの研究室なのか」「どのように調査を行うのか」想定される質問に万全の準備をしていたのに、あっさりと和やかな時間だった。この日の夜、私は阪急で購入したクラフトビールを傾けながら、初めて京都を味わえたような気がした。

夕方の散歩

 すべてが順調に進んでいたのも束の間、カヌーの模型やイルカの彫り物を天井から下げるのは難航した。吊り下げるためのワイヤーを固定するには、1mm程度の筒状の金具にワイヤーを通してペンチでワイヤーごと金具を押しつぶすという原始的な手法を用いるのだが、これが一筋縄ではない。①縫い針のような小さな穴に両側からワイヤーを通し、②ワイヤーが外れないように固定しながら、③金具の3倍大きなペンチで正しい向きに挟み、④思いっきり力を入れてつぶすという4つの段階すべてで、金具を固定できていなかったりつぶしが甘かったりで度々ワイヤーが抜けた。

不器用な手

当初ワイヤーを井形に組んでネジで固定し、そこからさらにワイヤーで展示物を吊り下げるという計画だったのだが、あまりにも高度な作業の連続に作業に当たっていた私たちの間には日に日に険悪な雰囲気が増していった。しかし、ある日(おそらくダダが)ワイヤーの代わりに既製品のメッシュパネルをはめることを思いつき、さらに器用な人々に展示品を固定してもらうことで、一気に暗雲は過ぎていったのだった。かくして、送り火の当日に展示は完成した。

メッシュ作戦

 毎夏のことではあるが、繊細さが求められた今年は特に己の不器用さや短気さに直面した2週間であった。わが反省人生において、もはやこの反省はポーズとなりつつあるのではないかと帰りの車中で反省する。しかし、反省なくして成長なし。伝教大師のごとく謙虚でありたい。

4度目の送り火



2026年7月18日土曜日

旅する野研のおもてなし*

 学期末で講義も大詰めのうえに、夏の3大プロジェクトの準備もなかなか進んでいない。そんなこの頃、連日たくさんのお客さんが北九州を訪ねてくれて、うれしいけどほんと大わらわ。伊藤詩織さんのあとは、能楽師観世流緑泉会代表の津村 禮次郎さん、ムビラ奏者の実近修平さん、台湾から謝旻儕さん、今週はほぼ毎日、門司港や下関や海を案内してまわっている。でも、それぞれとても楽しかった、ありがとう。そして今日はフランスから東桂とタクミくるらしい。これまた大変だ。でも、これが旅人生、お互い様のおもてなし。

 でも8月になったらこんどは私たちがお客さんになって京都や沖縄や奥能登を回ります。皆さんよろしくお願いします。














2026年4月27日月曜日

はたらく森のこびとたち

昨日は牧野親子とマテ掘りにいき、今日はローカル線の旅へ。
防府のマテ貝は美味しい

しとしと降る春雨のなか向かったのは、行橋の「ギャラリー稲童」。館長の植田義浩さんは朝日新聞の元社員で、赤村の檜が手に入ったことをきっかけに、小倉高校美術部の同窓だった原田脩さんの作品を展示するためにギャラリーを作ったそうだ。このギャラリーの開館式がきっかけとなり、映画「キセキの第九」が生まれたという。 

新田原から徒歩20分

住宅街を抜けたしずかな山の麓にあるギャラリーは、満開のつつじや牡丹が映える白壁に、方流れの屋根のスタイリッシュな造りになっている。当初は九産大の建築学科の学生らが図面を引いてコンペをしたようだが、八幡のお屋敷から巨石を譲り受けたことで計画が変わり、結局は門司港の洋設計事務所に格安で請け負ってもらったらしい。その辺の経緯については上田さんの奥様である幸子さんが著した『原田脩記念ギャラリー稲童建立記』に詳しい。 

すべてDIY

地元のアーティストの彫刻や書で溢れたギャラリーを案内されているうちに、次々におじさんたちが軽トラで乗りつけてくる。「いらっしゃい!」と陽気に歓迎してくれる人もいれば、恥ずかしそうにこちらの様子を伺う人や寡黙に振る舞う人もいる。それぞれのおもてなしなのか、敷地の草を刈り、蜂について説明し、あるいはチャパティを揚げていく。植田さんの兄貴然とした態度や彼らの仕事っぷりに、てっきり雇われの従業員なのかと思ったが各自勝手にギャラリーに集まってきた人々らしい。彼らは毎週末ここにきて、敷地に小屋を立てたり、焙煎機を自作したりしているよう。「ここにいる人たちはみんな変わり者。私だけがまとも」とみんな言っていた。 

渾然としたキッチン

まるで7人のこびとのようなおじさんたちと話しているうちにお昼になった。手際よく庭にテーブルが並べられ、インドの修行僧件シェフが作ったカレーやヨーグルトが並ぶ。蜜蜂が飛びかう春の庭で即席のガーデン・パーティがはじまった。縁もたけなわのなか、またも突然乗りつけてきた車から、なんと北九大の山﨑先生がゆっくりと降りてくる。彼もこのギャラリーの常連らしい。 

手前は上田さん、奥はシェフの廣中さん


「いつでも遊びに来て」と言ってくれたので、またぜひみんなでキャンプしにいきたいな。


ギャラリーのテラスから

このあとは行橋から平成筑豊鉄道で源じいの森へ。直方から筑豊直方駅に行き、筑豊電気鉄道に乗り換え。住宅街の中を走って黒崎で鹿児島本線に乗り換え。春のエクスカージョンでした。


ちくまる


意外に近代的

黒崎に到着



小籠包