2026年10月29日木曜日

ソロモンでのいくつかのおどろき

 フィールドは驚き(とショック)に満ちあふれている。

ソロモンはすでに野研メンバー数名のフィールドだけど、新鮮な気持ちでその衝撃をみんなに届けたいと思う。村に行けばもっとたくさんあると思うけど、今回はこのくらいにしておきませう。「そんなの普通だよ」と言われるのが嫌で、びびりのくせにかっこつけてしまいがちな私だけど、きちんと驚きを言葉にしていかないと発見はないのだ。


その1 風呂はバケツ

雨水をバケツにためて浴びる風呂(五七五)。首都の比較的よいお家でも水風呂なんだなと驚いた。

電気と水もよく止まる。


バスタブがあるだけで珍しいのかも



その2 傷が治らない

ペニシリンを飲み始めたらしっかりした瘡蓋ができるようになってきたので、細菌のせいかもしれない。



蚊と絆創膏かぶれ



その3 炭水化物大好き

米×イモ×インスタントラーメン。

21時くらいに夕食を食べて寝るという生活。


米はうれしい



その4 タピオカドリンクがある

チャラい気持ちになれるけど別においしくはない。

エコロジー的観点からかソロモンでは紙製ストローが基本。でも、大量のペットボトルごみがそこらじゅうに捨てられている。


値段は日本と変わらない



その5 1日スマホを見ている

休みの日はみんな寝転がってショート動画を見ている。

意外と遅寝遅起き。


土曜日の朝



その6 意外と真面目でシャイ

みんな好奇心旺盛なので、じっとこちらを見ていたりする。一度話しかけると人懐っこい人ばかり。



シャイなピキニニたち



その7 と思いきや踊る

おばちゃんたちのアイランド・エネルギーは激しい。


オール・セインツ・デーに向けて集まる



その8 めちゃくちゃ親切

道を聞くと周囲の人たちみんな集まってくる。


大学で社会人学生と



その9 家族でもそれぞれ違う教会に行く

礼拝も教会もたくさんあるので、それぞれ好きな場所へ行く。


SDAは土曜日に礼拝



その10 指毛が成長

気温のせいか細菌のせいか、着実に指毛が伸びつつある。


なぜ



その11 バス停に看板がない

次のバス停で降りたい時は「shiiiiiii」という謎の声を出して車掌に合図を送る。


乗客を乗せたまま給油



その12 外食は高い

基本1000〜2500円はするので、現地の人は昼食をスキップしたりする。

学校の周りでは、近所の人が揚げたおにぎりとかツナサンドイッチを大きなプラスチックケースに入れて売っていたりする。気温も高いので衛生的にどうかなと悩みつつ、ときどき買い食いする。


漁業省の辻さんと一皿1800円のタイヌードル



その13 虫はふつう

町だからか、嫌なのはネズミ、ゴキブリ、蚊くらい。

想像していたようなどでかい蜘蛛や蛾は見たことがない。


魚の神様



その13 歌声が最高

みんな歌がうまい。私が初めて歌った歌でもハモれる。

讃美歌だけじゃなくてもっと現地の歌を聴きたい。


慰霊碑を見てきた


2026年10月23日金曜日

ソロモン2週目

フィールドに来たら頭がわるくなった。

ローカルマーケットの野菜はセントラルマーケットから運ばれる


ホニアラに着いてから2週間が経った。

わたしの住む家には、母親、20代の3人娘、その親戚である2人のおじさんとおばさんの6人が常時暮らしているが、そのほかにも5人くらいの親戚が入れ替わり立ち替わりそこらに寝ていたりしゃべっていたりする。3、4日住んでいた人が突然パタリといなくなり、代わりに見たことのない家族がまた3日くらい居着いていたりする。




毎日イモとバナナを食べる


ありがたいことに個室をいただいているが、できるだけ居間で他の人と一緒に過ごすようにしている。家族が働きに出る昼間は、私も外に出てNGOのオフィスを訪ねたり、知り合いになった人に会いに行ったりする。ひとりでものを考える時間があまりなく、ただ目の前で起こる出来事にかじりつくばかりだ。



急に荷物を運び出したと思ったらシロアリ



目的地に向かって歩いているときでさえ、すれ違う人たちがみな興味津々に見つめてくるので油断ならない。人がいない折に『力と交換様式』を開きつつ、常になにかが起こっているのではと周囲の状況が気になっている。とにかく周りの人の様子を見て、2歳児レベルのピジンで語りかける。それしかできないから。




ツナに螺鈿をはめる



NGOのスタッフや大学の先生とは英語で会話するけれど、英語でプロジェクトや研究の話をするのは、ピジンをしゃべる時よりもさらに不自由な感じがする。なまじっかわかる分理解しきれない状態が実感できるし、日本語では深められる話題でも英語では軽くなぞるくらいの表現しかできない。すたすたと説明される言葉に懸命に耳を傾けても、6割くらいしか理解しきれないとき、そして何も質問しきれないとき、自分はなんとおばかさんなのだろうかと絶望。


環境省を訪ねる


もっとメタな視点で状況を見れたら、聞きたいことや知りたいことがわかるかもしれない。でも、今はカオスのなかに頭を突っ込んでおこうとも思う。そのうち濁りが沈んできて、周りがよく見えるようになってくるはず。



ラナディ・キャンパスでリンドンに会う


Save the Childrenのナンシー



京大で会ったサマンサとおしゃランチ


守恒本町の規模感


歌の夜



大学で友達作り



日曜学校はちょっと退屈だった


2026年10月14日水曜日

ソロモン1週目

 腹痛で動けないので報告を書いています。ソロモンに到着して今日で1週間が経ちました。なにせ毎日色々起こるので、もう1ヶ月くらいここで過ごしているような気がします。 

SINUの担当の先生

 到着して、平日はもっぱらあちこち回ってSIMを買ったりビザを申請したり、授業料を支払ったりと事務的なことで結構大変でした。公的機関や銀行でもカードが使えないので、やむおえず高額の現金を緊張の中持ち運びました。1週間で事務手付きがようやくひと段落しました。ビザは2週間後に受け取りになるので、とりあえず2週間はホニアラに滞在予定です。ホニアラの街は埃っぽくて雑然としていて、車や人で溢れています。Googleマップにはほぼ情報がないので日本でスマホ頼りだった私にとってはなかなか大変です。スリがいるのでスマホを出しにくくて、街の写真はありません。


いろいろ助けてくれる家族ジョー

 到着した次の日の夜には、オーストラリアから遊びに来ていた親戚家族のフェアウェルパーティがありました。部屋に入りきれず廊下に溢れる人々、およそ40人くらいでしょうか。なかなか顔を覚えられないことと、名前の発音が英語とピジンで違っていて少し混乱しました(ルース→ルティ、マチルダ→マシルダ、シャロン→サロンなど)が、いろんな人と知り合いになれました。パーティの初めと終わりにおこなわれる演説は、オーストラリアの家族との絆を強め、私をファミリーに迎え入れてくれるものでした。パーティーのごはんは、鰹のボムボム(=焼いたやつ)、ココナツミルク味のバナナとキャッサバ、スパゲティ・ミートソース、チキンの中華風といった感じです。中盤に民族衣装をのガールズたちのダンスがあったのですが、おばちゃんたちもキレキレに踊り出し、わたしもここぞと参戦しました。「Kiko!!」「Kiko save dance!」と歓声をいただき、チャンスを存分に活かすことができました。


食事の準備


食事の前の歌

ダンス

 日曜にはマックス家族とペンテコステ派の教会に行きました。ドラムとアコギの響くなかの激しい祈りには痺れました。この教会は2000年くらいにできた新しい宗派で、マレーシアの支部とも交流があるそうで、マックスも毎年マレーシアに行っているとのこと。教会のあとはファナレイの人たちで集まって、歌の練習をしたり、ファンドを集めるパーティの準備について話し合ったりしました。ちなみにほとんど女の人でした。チキンをどのくらい用意するかとかそんな内容なのですが、おばちゃんたちの話し合いはみていてとても面白いです。

100-200人の人たちが集まる

教会ではズボンは履けないらしい


アップロード中: 1700261 / 1700261 バイトをアップロードしました。
ファナレイ出身者たち

 ここで1番幸せなことのひとつはお祈りと、綺麗な歌を聞けることです。ラウ語の讃美歌は本当に美しかった。毎夜マチルダおばさんがギターを弾いて、2曲ずつ歌を教えてくれます。とっても優しくてユーモラスなマチルダが大好きなので、彼女が来週ファナレイに帰ってしまうのがとてもさびしいです。

アンティ・マシ

 昨日はいろんな用事を済ませてからSave the Childrenの事務所を訪ねました。ラッキーなことにその日に災害のワークショップが開かれているという情報を得て、さっそくチャイナタウンそばのスタジアムにいきいろんな人と話ができました。マライタやテモツ、シカイアナのことや、カカマイという保存食のことなどを聞きました。


救急救命のワークショップ


赤十字の人と

 たくさんの人と言葉を交わしていて、みんないろんな情報を教えてくれるのに、自分が4割くらいしか理解しきれないことがもどかしいです。そして、たった1週間だけどここに書ききれないくらいのことがあって、その異質さとカオスさを肌で直に感じて少し圧倒されています。これが自分の身体で知識をつくるということなのかなあ。落ち込むこともありますが深みにハマらないように、どうにでもなるぞという気持ちで頑張ります。

人懐っこい近所の子供ら


2026年9月27日日曜日

とこしずめとむすびのまつり(後編) 大介

 9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかった。しかも制作の作業ができるメンバーは、私を含め5名だけ。そのうち3名はほぼ初心者だった。開催に当たって未確定の要因もまだ残っていた。

テントは宿泊用のドームもふくめて、出演者とお客さん用の3張を持ってきたが、結局、宝湯がある鵜飼の作業現場から車で30分ほど離れた上黒丸のボランティアキャンプの宿泊施設を借りることにした。作業効率は落ちるが自炊はしやすくなる。

奥能登に到着したその日のうちに、最終的な開催場所をきめるため鵜飼い近くの海岸を歩いた。頭の中にはいくつかの候補があったが、事前に電話で管轄の行政に問い合わせた時の反応はあまり良くなかった。アクセスが良く海岸も整備された見附島周辺には、奥の方にひとつ有力な場所がみつかった。近隣を管理している会社を訪ねたら翌朝来てほしいと言われた。

次の候補は、宝湯から北側の海岸だった。グーグルマップで見ると砂浜が続いているが、すでに震災後防波堤工事が始まり、砂浜が残るところまでは宝湯からすこし歩く必要があった。さらに駐車場をどこかで確保しなければならない。

海岸部はどこも震災後の沈降で、以前見たときよりもずいぶん砂浜が少なくなっていた。

宝湯の前の本館の更地が、最も使いやすい場所だったが、足下には震災のがれきが落ちており、居心地のよい空間を作るためには、舞台と観客席を整備する必要があった。

翌日16日、再び見附島を訪ねると会場としての使用を断られた。有料のイベントであることが理由だといわれた。事前に地元の人から話を伝えており、大丈夫そうだと聞いていたのだが、候補地から外すしかなかった。

こうなった以上、すぐに判断をしなければならない。朝のイベントや足下のことまで考えれば海岸は理想的だったが、もともとの原点に戻り、お湯が湧き出ている宝湯の本館跡を会場にすることにした。

いそいでパソコンがある上黒丸にもどり開催場所の決定をネットで広報し、あわせて出演者とすでに申し込みをしてくれている参加者にも伝えた。さらにその日の午後は現地での新聞の取材があり、再び鵜飼に戻り、場所の決定を伝え、ホームセンターで作業のための資材を購入した。

もたもたする余裕はなく、17日には朝から制作の作業がはじまった。上黒丸で竹藪を紹介してもらい、半日かけて竹きりと加工の作業に入る。そして、軽トラを借りてそれを鵜飼まで運び込む。

会場のがれきは思っていたほど悪い状態ではなかったけれど、一晩過ごせる快適な場所にするためには、それなりに手を入れる必要があった。折からの雨で土壌も湿っている。台風が近づいてきており秋雨前線を刺激し天気が心配だった。日に日に風も強くなってきている。

18日には会場に運び込む土を手配することになった。私たちの手には負えないので、これも上黒丸の人たちに助けてもらう。震災で土砂崩れが起きた北山の復興現場に大量の土があるので、それが使えるかもしれないといわれ、現場まで連れて行ってもらった。

地下30メートルから掘り出あれた土は、かつての火山灰が風化してできた真っ白なカオリンだった。とてもきれいな土だけれど粘土質で雨に弱い。焼き物を焼くにはふさわしい。

何カ所もの作業場を見てまわり、比較的石が少ない山土を選んだ。工事の人たちも、どうせ捨てる物だから持って行くのはかまわないといってくれた。土の確保はできた。

問題はどう積み込むかと、どう運ぶかだった。会場の面積を考えると最低でも4トンは必要だった。仮にトラックは手配できても、人の手で土を積まないといけない。

山から下りて来る途中で、崖を切削している現場に通りかかった、案内してくれた人が、ダメ元で聞いてみようかといった。よく知っている人だった。こちらの事情を説明すると、もっといい土があるので、午後であれば時間があるから運びだそうと言ってくれた。いったん拠点に戻り、昼食をとり、作業の分担を決めて上黒丸から鵜飼の宝湯にむかった。

午後いっぱいトラックの横に乗り、珠洲市内の採土場を回った。砂地の良い土はあったが人の手で運び出すのはむつかしかった。結局、積み込みに重機が使える現場から土を運び出すことになった。

とりあえず水たまりができている窪地を埋めていくことを優先した。土を手に入れるために、工事の人も含めて、今日一日だけで10人以上の人に話を聞いてもらった。だれひとり「できない」とは言わず、「どうすればできるか」を考えてくれたのがとても印象的だった。

自分から動き「村人に話しかける」と新しい道が開けていく。人から人へとつながっていくようすは、まるでロール・プレイイング・ゲームのようだった。

土を会場に運び込むと土木工事が始まった。屋外インスターションの基本はまずは土木工事なのだ。2021年の上黒丸小学校での作品制作を思い出す。もし、会場が砂浜であれば必要のなかったはずの下準備で、丸一日、時間と労力を奪われる。

19日には、ようやく五右衛門風呂を設置して周りの環境の整備をはじめた。同時に現地入りしてくる出演者への対応や、参加者への案内や宿泊用の準備も進めなければならない。人数が読めないので駐車場も多めに確保する。

宿泊用のドームは15人ほど泊まれるし、個別の大型テントももってきていた。さらに朝まで残るつもりの人たちには、基本的には車中泊か各自でテントを用意してもらうように事前にアナウンスしていた。

しかしここで、震災後はゲストハウスで生計を立てている宝湯が、かき入れ時のシルバーウイーク中にもかかわらず、イベント当日の宿泊客をとらず、テントに泊まれない人たちのための部屋を無料で用意するといってくれた。

本当は、宝湯の部屋の利用も含めての支援のはずだったのだけど、逆に私たちが支援してもらうことになってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

すべてが同時進行で5人の実働メンバーはフル活動だった。日が暮れるまで作業をして、宿泊拠点に帰り夕食をつくる。その合間に、広報や会計の整理をする。

せっかく能登まできているのに上黒丸の人たちとゆっくり話をする時間もなかなかとれなかった。それでも夜になると宿に遊びに来てくれたり、朝の作業前はみなでラジオ体操したり、合間の時間に家を訪ねたりと、できるかぎり村の人たちと会うようにした。

ダンサーの舞台や、炉端焼き用の炭や焜炉の手配をどうするのか、未確定な懸案事項については、夜のうちに複数の可能性を考えておく。

20日、もう明日にはイベントが始まる。昼前に三崎の材木屋さんが焜炉を持ってきてくれた。舞台用の手頃な板材を探していると話をすると、木片のチップはどうだろうかと提案してくれる。3トンのトラックを借りてチップを運ぶことにした。土よりもずっと軽いし柔らかい。トラックいっぱい積んで会場に広げる。

あわせて宗太郎さんが知人から畳の手配もしてくれた。多くの人のサポートに感謝しかない。椅子とテーブルにつかうための清酒ケースも届けられた。席はこれでたりそうだ。駐車場につかえる空き地を教えてもらい草刈りをする。

九州からの応援部隊が到着する。現場での作業はすでに一段落しているので、夕飯を依頼し、現場では当日にお皿代わりにする竹を割りながら、五右衛門風呂の排水のためのパイプが届くのを待っていた。パイプが届き、ここでようやく五右衛門風呂にお湯を張る。作業最終日のご褒美として、今日の最後にみなで入る予定だった。

しかしここで想定外のトラブルが発生。五右衛門風呂の栓を止めるために金属のパイプを打ち込み、温泉を入れたところ、風呂桶にひびが入り、一部が割れてしまった。

ためていた水が割れ目から勢いよく噴き出し、どうしても止められない。今晩中の修復は不可能と判断し、翌日の朝にホームセンターで修理用の資材を買うことにした。お楽しみのお風呂はイベント後にお預けである。メンバーは朝からのチップ運びや設営作業で汚れた身体のまま山に戻った。

21日、風呂桶の修繕が気になっていたので、早朝から動く。イベント中の作業分担を決めて、炉端焼き用の食材の手配と下準備のメンバーを残し、設営部隊は現場に急いだ。当日の朝から台風の風が強く天気が不安定だ。せっかく準備した会場も、ときおりふる小雨のたびごとに何度も撤収しなければらならず、そのあとまた設営し直すことになった。

とくにPA関連の機材はデリケートなので、最終的にテントをかりて設営し直すことになった。リハのために雨の合間をぬって音の確認をするけれど、前の晩に宿で確認していたはずの音出しの段取りが、現場ではなかなかうまくいかない。


夕方には雨も小やみになり、いよいよイベントがスタートした。ここまでくるともう誰にも止められない。台風の風はまだ強いが、五右衛門風呂には火が投じられた。

PAの不手際、進行のもたつき、炉端焼きの炭の手配の遅れなど、気づかない問題も含め、たくさん至らないところはあったと思うけど、プロの出演者たちはみごとにそれをカバーしてくれた。

厳かで力づよく、しかし愉快で楽しい祭りだった。世界中の神々(エナジー)がここに降り立った。宗太郎さんの最初の言葉が思いのすべてを語っていた。あの日、多くの命が奪われた、まさに震災の現場である荒野に、数年来のさまざまな逆境を越えて、私たちは今ここに立っている。

地震で失われた多くのものと引き換えに、私たちはまだ生きている。台風の風は夜半過ぎには覆っていた雲を飛ばし、空には月が現れた。寒さに震えた震災直後のあの日の星空に比べれば、今日の星空はなんと優しいことだろうか。

(イベントの内容については、ここのパフォーミングの詳細も含めて、ホームページと別稿で、あらためて書いておきたい)


最後に、以下は蛇足であり、たぶん私ひとりの問題である。

野研のメンバーもよくやってくれたし、上黒丸や宝湯のサポートは望んできた以上のものだった。できるだけ頼らずにやりたいと考えていた自分を恥ずかしく思い、臨機応変に動いてくれる地元の人たちにただただ恐縮するばかりだった。上黒丸の人たちにとって鵜飼は遠くてイベントには参加できないけれど、毎朝会うたびになにか困っていることはないか聞いてくれ、こちらが何かいうとそれが実現できるように人をつなげてくれた。

頼りながら助けあいながら、震災後の生活を乗り越えてきた人たちの優しさと力を、そこに見た思いがした。そして何よりも忙しい中で遠路はるばる駆けつけてくれた出演者の皆さんと、奥能登に集まってくれたお客さんには感謝の気持ちしかない。

とても素晴らしいイベントになったと私は思っている。もっとたくさんの人にみてほしかったし、自信をもって一つの再生の歴史を刻むことができたと思っている。

ただ作品作りと演出とその両方を同時に受け持った私が、それに集中できず、雑用と制約の中で思い通りに動けなかったことが、あくまで個人の思いとして心残りだった。

たぶん私がやらないといけないもっとも大事な仕事は、今回のイベントの依り代でありご神体でもある五右衛門風呂を納得いく物にする作り込みだったのだけど、結局、ほとんどそれに時間をかけることができなかった。

ドームは荒れ地に生える雑草や今も海辺に散らばる枯れ木や廃材をからませて、震災を乗り越えてもまだそこにあるような、もっと野性的な存在であってほしかった。五右衛門風呂も、この神が降りるイベントの主役としてこれまでにない表現を創りたかった。

このご神体と、その借景となる荒れ地にたつ斜めの電柱。舞台と客席の関係性と距離、もうひとつの竹の作品とPA用のテントの配置、そのすべてを納得がいくまで検討できる余裕があればよかったと悔やまれる。

せっかく借りられた畳もうまく生かせず、結果的に客席の位置が中途半端になり、あまり美しくないデッドスペースが生まれてしまった。炉端焼きの場所もすこし舞台から遠すぎたかもしれない。逆に中心のドームの横の空間は思い切ってもっと広げ、暗闇に浮かぶ五右衛門風呂の孤高感を演出すべきだった。夜になることを想定し、傾いた電柱も光の中に浮かび上がらせることだってできた。赤い提灯の明かりは逆光がまぶしすぎるので、あらかじめ用意していた布を巻いておくべきだった。もう一つの竹の作品の意味づけも不十分で、結局はただのイルミネーションとして曖昧なままごまかしてしまった。

繰り返し書いておくけれど、たぶんこれは私ひとりの問題である。他の人はもっと別のことを感じていたのかもしれない。

公演の最中に、せっかくのリソースを生かし切れていない、自分の力不足を感じていた。でも一方でたぶん今回のように余裕がない中で、もしこれ以上自分の思いを通していれば、たぶん多くの人たちにさらに負担をかけてしまっただろうとも思っていた。

イベントの前日に出演者のひとりからSNSを通して投げられた言葉に私はとても傷ついていた。すでにその言葉は一方的に削除されてしまっているが、その人に、私の思いをうまく伝えられなかったことが、そのすべての原因だったと思う。この人からはきっと信じられていないのだろうと感じた。けれどもはや思いを伝えることすらできなかった。

たとえ演出や作品として、こうしたいという強い思いが私にあっても、だからといって決して誰かを苦しませるために、このイベントをしているつもりはない。それぞれの人がベストなパフォーマンスができるように準備するのも制作の仕事だと思っている。最高のタイミングで最高の結果を生み出すために、相手に必要なものを求めるときに生じる葛藤は、つねに意識している。

9年前の歴史にはじまり、蛇足も含め長々と裏話を書いてしまった。

ひとつのイベントが成功に終わったときには、こんな裏話は必要ないことはよく知っている。どんな思いがあろうと結果として、生まれた作品やイベントの内容そのものがすべてであり、あの瞬間に立ち会った人にそれが伝われば良いのだと思う。

あの震災の日に絶望しながら見上げた星空や、その土地で亡くなった多くの人たちの悲しみ、生き残った人たちのつながりと、そして立ち上がり前に進もうとしている希望。

翌日の朝日を見ながら思った。どんなに人が演出し作品を作り込もうが、この日の出の美しさにはとうていかなわない。

荒涼とした震災後の野原の中で、台風の風や、瓦礫が散らばる地面や、虫の鳴き声や、月や星や、時折降る雨ですら、実はすばらしい演出になっていた。屋外でやると決めたときから、アンプや電気もいらなかったかもしれない。あの寒い日々には電気もなかったのだから。

もし震災の夜に思いをはせるのであれば、大地から湧き出す熱水のように、もっと粗野に任せて、自然を信じて、あるものをただあるように伝えればよかったのかもしれない。

もしかすると私がもうすこし出来ていれば、という思いこそ間違っていたのかもしれない。私ひとりでできることはたかが知れている。自然を信じていなかったのは、私だったのかもしれない。

とこしずめとむすびのまつり(中編) 大介

 2017年の芸術祭の際に、四代目宝湯当主の橋元宗太郎さんを私たちの五右衛門風呂作品に招待し、いつかこれを宝湯で実現しようと約束した。

2024年の元旦に宝湯の本館は倒壊し、2025年、瓦礫が撤去された更地にこんこんと温泉が湧き出し、そこに五右衛門風呂の露天風呂を置いた。そのとき生まれた「エナジー風呂」のイメージをもとに、タブラ奏者のU-zhaanに出演の依頼をしたところ、1年後の2026年にチャリティフェスが実現できる可能性が出てきた。

それから1年かけて能登と連絡を取りながら、この企画を進めてきた。宗太郎さんは精神的にも身体的にも、そしてなにより経済的にとても苦しい中で、やりとりが途切れがちになりがならも実現にむけて前向きに協力してくれた。

しかしこの企画には、できるだけ現地の人に負担をかけたくなかった。自分たちでできる範囲でするしかないと覚悟はしていた。とくに宝湯のお湯を提供してくれる宗太郎さんには、これ以上の負荷はかけられないと考えていた。

1年間かけて事業予算として震災復興のためのさまざまな助成を当たったが、あてにしていた助成資金はことごとく落ちてしまった。助成を受けながらチャリティをするときに、チャリティ収入よりも助成金額の方が大きくなるのは矛盾しているという指摘もされた。今考えると、おもいきって無料イベントした方が良かったのかもしれないが、それでは助成の条件である自己資金のめどがたたなかった。

結果的にようやく取れたのが、北九州市立大学の同窓会から受けた学生たちの活動のための助成金だけだった。別の団体とのタイアップも企画そのものの持ち込みも断られ、最終的には野研からの持ち出しと、交通費を時期を前後する別の事業から捻出することで費用をカバーした。それでも観客数次第では赤字前提は変わらなかったが、そもそもの目的が能登の復興支援とチャリティが目的であるので、これも私たちからの寄付と考えることにした。

そうして、かならずしも順調とはいえないまでも、2026年の5月までは9月のイベント開催をゴールに準備を進めてきた。この時点であとは、イベントの詳細をつめて会場の確定し、機材の調達、スタッフの確保、そして告知をしていくだけになっていた。

しかし、7月になってどうしても鎮座DOPENESS、環ROY、そしてU-zhaan の3人のスケジュールが合わなくなり、何度も調整をしたのだけれど今年の出演が難しくなってしまった。運営資金の不足分を、イベント参加費から補うおうという目算も同時に崩れてしまった。

まだ告知を始めていなかったので、規模を縮小し、前年度と同様に身内のためだけのイベントにすることも考えた。急遽、予定していた告知を止めた。別の可能性もいろいろ考えたけれど、宗太郎さんも楽しみにしているイベントそのものを中止するつもりはなかった。しかし、どのようなやり方をするにせよ、準備期間はほとんどなかった。

同窓会からの学生活動の助成は取れていたので、いったんすべてを白紙に戻して、学生たちが主体の企画に変更した。もともと同窓会からの学生活動の助成金は3人分の旅費の予算にあてていた。出演者に使える費用はここしかない。低予算でできるように、短期間で準備をし直した。

この条件では、能登の被災地に対する強い思いと心意気だけで来てくれる人でなければ、難しいだろうと思った。これまで野研や大學堂でおせわにになり、以前の奥能登芸術祭でのライブに駆けつけてくれた何人かアーティストに声をかけた。

準備してきたの企画の再現というよりは、来てくれる出演者に合わせて、すべてを作り直すことにした。どうしたら被災地の外から人を呼べるのか、どうしたら今の現地の状況を参加した人に感じてもらえるのか、イベントの意義を伝えることから、もういちど検討をはじめた。

こうして大地に寝転がりゆるゆると夜を過ごす「エナジー風呂」は、華やかな祭りから静かな鎮魂へと続く「地鎮(とこしずめ)と産霊(むすび)の祭礼(まつり)」となった。

出演者のめどが立ち、日程の調整もなんとかできた。こんな厳しい条件とスケジュールの中で、引き受けられる人も多くはないだろうと予想していたが、思っていたよりも多くの人が賛同してくれた。とてもうれしかった。

けれど、その結果、その人たちの旅費だけでも予算が足りないのは明らかだった。しかもチャリティの趣旨からも、できるだけ開催収益は被災地に回したい。全体の経費を減らすために私たちの作業のための滞在は宿泊はテントを使い、乗り合いで移動し交通費も可能な限り押さえる方針に決めた。野研の卒業生たちや大学同窓会の北陸支部も活動のサポートを申し出てくれた。

そんな中、8月6日からは京都でのリノベや、そのあと沖縄と大阪と名古屋での学会発表やフィールドワークの予定が立て続けに入っていた。

京都にいる10日間のうちに出演者にはプログラムとスケジュールの確認をしてもらい、小倉にもどると1日でホームページと本チラシを仕上げた。翌日からの沖縄と名古屋の予定がはじまると私はまた動けなくなる。最終的な会場が決まらないまま、チラシを入稿するしかなかった。まさに綱渡りでぎりぎりのスケジュールだった。

入稿を終えると沖縄に旅立った。私や野研の沖縄部隊が不在の間は、小倉にいるメンバーが出演者とのやりとりや、チラシの郵送、機材の調達準備を進めることにした。現地とやりとりしながらも、最終的な開催会場が決まらないまま、能登行きの日を向かえることになった。

そうして9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み、小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかかった。未確定の要因もさまざま残っていた。

2026年9月25日金曜日

とこしずめとむすびのまつり(前編) 大介

====前編

あれからもう11年になる。2015年の奥能登でのアートプロジェクトで「上黒丸越冬隊予行演習『おこも丸』」を制作した時に初めて珠洲の宝湯を訪ね、銭湯の上にある大きな宴会場と迷路のような不思議な建物に魅了された。何度か通ううちに知り合いになった四代目当主の橋元宗太郎さんとともに、作品完成の打ち上げをこの宴会場でおこなった。舞台を持ち、かつては500人のお客さんも入ったことがるという大広間で、夜を徹した愉快な大演芸大会だった。

このときの経験から、次の奥能登では水とお風呂をつかった作品をつくろうと思った。奥能登で畑の隅などに放置してある五右衛門風呂を探して歩いた。

2017年の奥能登国際芸術祭では「海のこと山のこと在郷まわりと五芒星」と題し、海と山の交流をテーマにインスタレーション作品を制作した。作品展示の現場近くに借りた古民家にはお風呂はなく、作業中も会期中も、作品の一つである五右衛門風呂を実際に使いながら生活した。夕方になると湧き水を引き、薪を焚き、湯を沸かした。日が落ちると、真っ暗な山中に、星空と自分しかいない完全な露天風呂ができあがった。

宗太郎さんもこの現場を訪ねて来てくれ、五右衛門風呂に入り、湯船の中で360度見渡せる星空を満喫し、「いつか珠洲宝湯でもこの五右衛門風呂をやりたい」と熱く語った。このときは、すぐにでも実現できると思っていた。しかし、この約束を果たすために、このあと実に9年もかかってしまった。



芸術祭の作品群のひとつとして宝湯が注目され、宗太郎さんも宿泊のための施設作りにいそがしく、2021年の芸術祭では、コロナのために人の行き来も難しくなってしまった。私たちはほとんど里には下りず、山にこもって制作をしていた。軽トラで風呂桶を運ぶだけなのに、そんなことはまったく許されない雰囲気だった。

そして2022年には、小倉の旦過市場で火災が起こり、大學堂が解体され、大學堂再建のための怒濤の2年間、私たちは能登に行くことすらできなかった。

そして2024年の元旦に忘れられない能登の大震災が起きた。宝湯のある鵜飼の地は沈下し、そこを津波が襲った。もともと干満差が少なく東向きの穏やかな内海に面したこのあたりには、岸辺のギリギリまで家屋がひしめいており、波のみこまれた家々はひとたまりもなかった。

地震から8ヶ月たち、宝湯を訪ねた私たちは、崩れ落ちた本館のがれきを前に、元旦の夜のことをうつろな表情でかたる宗太郎さんに会っていた。宗太郎さんが、財産や建物を失ったことよりも入浴中にひとりの常連客が亡くなったことを悔やんでいたことが、私にはとても強く印象に残った。


それから毎年、能登に通った。2025年には、宝湯のがれきはすべて撤去され、そこは更地になっていた。しかし遅々として進まない復興の中で、宗太郎さんは多額の借金を抱え、信用していた従業員にだまされ、生活のためのオーバーワークが続き、人間不信におちいり身も心も苦しんでいた。

野研もコロナ以降、これまでの能登での活動を知るメンバーも少なくなり、新しい世代はなかなか育たなかった。能登の状況も大きく変わり、私たちを知る人々の何人かは、この地を離れ、多くの人が亡くなっていた。

宝湯の再建と上黒丸の暮らしのために、震災前からこの地を知っている私たちができることは何だろうか。現地を回りながら、ただのボランティアや、お手伝いではなく、なにかこの土地の未来につながることをしたいと、ずっと考えていた。

建物が撤去された宝湯の更地には、こんこんとお湯が沸き出していた。地震後は自噴するほどに湯量が増し、地質学者の調査では地下30キロメートルにある太平洋プレートの沈み込みから生じた水に溶けたマントル起源物質を含む深部流体成分が確認された。地震はたくさんの悲劇を生んだが、温泉は途絶えることなく生きかえっていた。

荒れ地の中に五右衛門風呂をおいてみた。パイプから流れ出す薄水色の温泉は、ほのかに硫黄の匂いがして柔らかかった。震災以降、気持ちがふさぎがちだった宗太郎さんもとても楽しんでくれた。最高の温泉だった、自分たちがこんなに楽しいのだから、みんなもきっと楽しいに違いない。

あらためて宗太郎さんとのあのときの約束を果たしたいと思った。あたらしく湧き出した温泉と一体になった五右衛門風呂を、ひとつの依り代としたシンボリックなアート作品をここにつくり、それをこの地の再出発の起点にしたい。

この作品は現地の人たちのためでもありながら、それよりも金沢や、大阪や東京からここに人が集まること。そしてここに集まった人々が、今の能登の状況を自分の目で見て、湯を通して身体で感じるという願いをこめたものにしたいと考えた。だからこそ自分たちの楽しみだけではなく、たくさんの人を呼べるイベントにしたかった。

傾いた電柱だけがのこる震災の更地に、ぽつんとひとつおかれた五右衛門風呂を取り囲みながら、そこでくつろぐ百人をこす人々。いろいろな場所で自然発生的に歌や踊りが始まり、秋の夜長を朝まで、ゆるりゆるりとたのしむ祭り。

ひとりの野研メンバーが口ずさんだエナジー風呂という曲が、そのイメージに重なった。2019年、坂本龍一、鎮座DOPENESS、環ROY、そしてU-zhaanによって生まれた「エナジー風呂」。すぐに「50年近く生きてきて、今がいちばん風呂好き」とかたるU-zhaanに連絡を取ると、「1年後なら3人で行けるかも」という返事をもらった。「十分な謝礼は出せないけど、温泉の復興支援のためにチャリティの気持ちで来てほしい」と伝えた。なにかが動き始めた。

特別な予算のあてもなく、宗太郎さんも再建事業の先行きが見えない不安を抱える中で、コロナ以降の世代交代に苦しみながらこれまでになく弱体化している野研メンバーで、これだけのイベントができるかどうか不確定な材料はたくさんあった。

でも、やるのであれば今しかないだろうと思った。まだ1年の準備期間がある。その間に、能登の状況はすこしは上をむき、新しい野研のメンバーも育てていけるかもしれない。さまざまな助成を申請すれば、あるていど事業予算を確保できるかもしれない。宝湯の再建事業を前に進めるためにも、もし実現できるのであれば、野研の企画ではなく、ほかの団体との共催か、最悪、事業そのものを譲ってもかまわないと思っていた。

この期を逃したら、2017年からの約束を果たすことはできないかもしれない。