2019年8月18日日曜日

ピュシスの贈り物ーあるいは簡単なことを難しそうに書くことー

秘密の贈り物
この物語は秘密を打ち明けることから全てが始まる。テラメーヌにアリシーへの秘めた想いを伝えるイポリット。エノーヌにイポリットへの想いを伝えるフェードル。秘密の告白が贈り物であることについてはいくつかの方面から指摘がある。
精神分析学者の成田善弘によると、子どもが母親に贈る最初の贈り物が大便である。大便は、自己の内部にある大事なもの、保持したいものであり、保持の緊張が高まると同時に排出の欲求が高まる。秘密がそれと同じ構造をもつことは容易に想像できる。秘密は保持したいからこそ秘密としての意味を持つ。しかし、最後はそれを共有し、自他の境界、もしくは自他の関係の質を引き直すことも、秘密に含まれる意味である。秘密とは、このような保持しつつ与える矛盾を持った性質のものだ。人類学者のアネットワイナーやゴドリエはこの「保持しつつ与えること」を贈与の定式に据えようとした。秘密の贈り物とその矛盾。この矛盾はテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンされるように簡単に保持され時間を進めることはない。秘密の贈り物は贈った方も贈られた方も苦しみ、その苦しみは解消されることがない。秘密の贈り物の構造について、様々な事物に当てはめて考えを巡らすことは楽しいかもしれない。けれど、広大な海を前に、苦しみながら自らの小さな秘密を打ち明けるイポリットとフェードルをみて、やはりその苦しみについて考えないわけにはいかない。
 成田は「分泌物」と「秘密」との関連を指摘する。secreteという言葉には「分泌する」という意味と「秘密にする」という意味がある。秘密が彼らを苦しませるがゆえに、いつもそれは少しずつ分泌されるsecreteである。テラメーヌもエノーヌもその分泌されたsecreteを見逃さない。秘密の発見と共有。その小さな秘密は物語の中で育てられ、大きな破滅を招く。しかし、それははじめ、ただ少し、苦しみながら分泌されたものだったはずだ。(贋の侍女ではこの分泌は楽しげにおこなわれる。)この分泌に「個人の意図」のようなものが入り込む余地はあっただろうか。
カオスと分泌されたピュシス
 王の訃報はまさしく、ドゥルーズのいう超コード化された世界からの解放だ。その解放がもたらしたのはカオス(無秩序)だったのか。錯綜する報告と思惑の中、むしろ顔を出したのはピュシス(生きた自然の秩序)でなかっただろうか(もちろんドゥルーズはその後に脱コード化の世界を見たのだが)。否応もなく分泌される秘密。製られた言葉と過去の秩序がすぎた後、逆照射されたカオスとしてのフェードルは、義務と情熱をきれいに解きほぐすことができない。その責は全てフェードルの個に帰されるべく存在するにも関わらず、演じられている秘密の分泌はピュシスを想起させる。波の音響と、夕焼けのホリゾンと、海の大黒幕と、どこまでも広がる砂の舞台に我々はピュシスの中にいることを実感する。個はその感覚に促されて小さな光を放つ。それは、分泌された秘密の贈り物である。
毒の贈り物
 贈り物はまた危険な毒を含む。劇中の付き人や召使いは秘密を運ぶ役割を担う。しかしその秘密は毒である。迂闊にもトリブラン秘密を打ち明けてしまうフロンタン、またはアルルカンに秘密を打ち明けてしまうトリブラン。召使いたちは自らも危険を冒しながらその毒を運ぶことで生き抜いていこうとする。そこにスリルがある。一方で、エノーヌはフェードルの秘密という毒を浄化しようと躍起になり自らがその毒に侵されて死んでしまう。ところでその毒はどこから来たのだろうか。その毒は、フェードルから来たものだったろうか。本当に?フェードルもまた誰かからその毒を贈られたのではなかったろうか。
死を与えること
 フェードルとエノーヌはそれぞれの単独的な関係において倫理を乗り越える。神との単独な関係において息子のイサクを殺そうとするアブラハムの行為を、キルケーゴールは「倫理的なものの目的論的停止」と呼んだ。単独性のつながりは、秘密に含まれる毒を時には全身に、また他者にまで広げてしまう。デリダは、その単独性の関係と倫理の矛盾の瞬間にとどまり、その矛盾に耐え抜くことを要求する。しかしエノーヌは、その矛盾を止めるのではなくレイヤーを遡る。エノーヌはフェードルから秘密という毒の贈り物を受け取った。しかし、エノーヌに死を与えたのはフェードルではない。その逆で、エノーヌはフェードルの毒の贈り物に対して死で報いた。エノーヌはその秘密の毒で死んだのではなく、自ら死をフェードルに与えたのである。死は、エノーヌからフェードルに対してできる最後の贈り物だった。それは、ピュシスから発した毒をコードの中で運びながら、カオスでも超コード化された世界でもなく、もう一度ピュシスに帰すための死ではないだろうか。エノーヌはフェードルとの単独性の関係と、倫理との矛盾を、ピュシスまでレイヤーを遡ることで解消しようとする。エノーヌの死はフェードルの秘密の贈与への反対贈与である。
王の帰還
 王の帰還という本来幸福な出来事が、カオスと化しつつあった世界を再び超コード化し、もはやピュシスを思い出すことのない悲劇を生み出す。そしてフェードルは永遠にカオスの中へと忘却される。その悲劇にもし微かな祝福があるとするならば、フェードルの愛するイポリットの死かもしれない。
 イポリットの死は、劇中ではテゼーの愛憎とネプチューンの力によるものとなっていた。それは、テゼーとピュシスからのフェードルへの贈り物とも言える(かもしれないが、もしそうだとしたら、本当に悲劇的なのはイポリットだ)。
最終的に、フェードルは愛するエノーヌとイポリットの後を追う。その場所は本当はカオスではなくピュシスだったのではないだろうか。だとしたらこの話はやはりフェードルの悲劇ではない。フェードルの死をカオスの中に観てしまった私の悲劇である。
秘密の毒はどこから贈られたか
 では、毒はどこから来たのだろうか。フェードルの与えられた毒は、ピュシスに発する情欲であると私は思う。しかし、その毒は初めから毒としてあったのではない。コード化された後の世界で、情欲は毒と化し、カオスの中に逆照射された。その逆照射そのものの罪を一身に背負ったのがフェードルだったのではないだろうか。フェードルが背負った罪は、コード化された世界を逆照射してカオスの中に見てしまう私たち自身の罪である。
しかし、それも全て、やはりピュシスの中にある。この逆水浜という舞台は、全てが自然の無秩序な秩序の中にあることを指し示していた。だからこそ、エノーヌやフェードルが海というピュシスに還っていくその姿は、暗闇の浜で私たちの目に焼き付いたのだろう。

2019年8月17日土曜日

フェードルはなぜ野外で演じられなければならなかったのか

海の潮は役者たちの足元までせまり、波音が彼らの台詞をかき消そうとする。うずめ劇場の野外演劇「フェードル」の若松逆水浜海岸特設会場における公演は、2019年8月11日と12日、日本列島がふたつの台風に挟まれた、その空隙の2日間に開催された。


フェードルは、ギリシア神話を素材に、17世紀にフランスの劇作家ジャン・ラシーヌが焼き直した悲劇である。


私が、うずめ劇場のペーター・ゲスナーと松尾容子から野外公演の話を持ちかけられたときに、長い歴史のなかで洗練されてきたこの古典劇を、なぜわざわざ音響や設備が十分に準備できない野外でおこなうのか、その意図をすぐに理解する事ができなかった。

すでに私は、昨年のうずめ劇場の「フェードル」の東京公演での大成功は聞いていた。高度で複雑な言葉の応酬、二転三転する筋書きと登場人物の心の動き、多くの評論は、ペーターのそうした演出と役者たちの演技を褒めていた。そんな繊細に構成された舞台芝居を、どうやって野外でおこなうのだろうか。

もしかすると、この申し出は、状況のミスマッチを楽しむための仕掛けなのだろうか、私にもとめられているのは数奇な野趣なのだろうか。話を聞いた当初は、正直なところ、そんな気持ちだった。


しかし、ペーターははっきりとこう言った。「フェードルは、まさにここで演じられなければならない芝居なのですよ」


響灘をのぞむ逆水の海岸には、夏の強烈な日差しが降り注ぎ、台風の余波で黒い海はざわめき、想定していた以上の満ち潮に舞台に予定していた浜は削り取られ、制作のために前日から浜での生活を始めた私たちは、設営の準備のためよりも、ひたすら強烈な夏の自然そのものに体力を奪われていった。ギリシア神話に登場する自然の荒ぶる神々。むき出しの海岸には、海の神ネプチューン(ポセイドン)の情念が、容赦のない熱波となって地上に降り注ぎ、私たちの身体を苛んでいく。


やがて日が落ち、昼間の灼熱の名残を伝える焼けた砂浜に灯がともり、芝居が始まる。ここからは言葉の時間だ。人間たちが浜に登場する。契約と倫理に縛られた、誇り高く、嫉妬深い、人間たちの物語が始まった。


おりしも私は今年の春から学生たちとともに、ローマ法学者、木庭顕が著した「誰のために法は生まれた」を読んでいた。この本を通して、ローマ時代の喜劇作家プラウトゥスの「カシーナ」「ルデンス」、古代ギリシアの悲劇詩人ソフォクレスの「アンティゴネー」「フィロクテーテース」の4つの戯曲を知った。

戯曲の解釈を元に、そこにあらわれる法の概念についての木庭の目が覚めるような分析によって「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基である」という視点が明らかにされていく。それは、今回のうずめ劇場が今回上演した、悲劇「フェードル」と喜劇「贋の侍女」を理解する上で、非常に役立った。


ラシーヌの戯曲によるフェードルの初演は、1677年1月1日。時は大航海時代、近世の幕開けである。見知らぬ人々と交易をおこなうために法と契約が整備され、相続権や王位継承権のために、貴族の間に結婚が「発明」された時代である。こうしてギリシア時代の恋の情熱は、教会が認める結婚という契約制度に変わった。

別の戯曲には、フェードルはテゼーと結婚していたのではなく、婚約していただけだという解釈があるという。もしそうならば、私たちのフェードルの行動に対する視線は、ずいぶんと違ったものになるだろう。しかしラシーヌはそうは描かなかった。フェードルが提示する葛藤は、愛や情熱の苦しみではなく、裏切りと不倫の苦しみであり、嫉妬の情念は、罪という重荷に置き換えられていく。


しかし、ペーターの若松海岸での野外芝居の演出はさらにその先をいく。彼はラシーヌが提示したその近世人フェードルの苦しみを、再びあのギリシア時代の自然に解放したのだ。それこそが彼がこの芝居を海岸でおこなう意味であり、たくらみだったのだろう。ペーターは、ほかのどの舞台とも異なるフェードルの解釈を、この一度限りの芝居に忍び込ませたのだ。

役者の足元まで迫る黒い海。ギリシア神話の神々は、フェードルや登場人物の激情を受け入れ、その悲劇的な運命に対して狂気を解き放ったのである。海が荒ぶれば荒ぶるほど言葉は無力となり、圧倒的な暴力と理不尽によって人間は翻弄される。


それはすでに悲劇ではない。悲劇は人間が生み出すものだ。神々ではなく人間であることそのものが悲劇なのだ。この海岸での芝居は反語的に私たちにひとつの真実を語ってくれた。それは、背徳や葛藤のなかにこそ人間性があるという真実である。


最後に1つだけ蛇足を。フェードルはなぜ死を選んだのか。その答えは、彼女が神ではなく人間だったからである。

情熱と義務のあいだ

ギリシャの神々は人に情熱を与えた。ミノスとパジファエの娘、そしてミノタウロスの姉であるフェードルは、その情熱と欲望にのみ苦悩したのではないだろうか。
ところが数千年の時を経て、ネプチューンの名を唱えながらそこに唯一神の面影を観る男によって描かれたフェードルは、情熱と義務とのはざまで苦悩する。
義務とは何か。


エノーヌはしきりにその立場を説く。妻として貞淑であれ、母として子を守り、妃として妨害するものを排除せよと。
エノーヌは、宮廷に仕えるあまたの女性の中でも頂点である妃の側近という己の立場から、妃を守り、国を治めるために策を巡らす。


多少の詭弁にひるむことなかれ。
全てはあなたのお立場を守らんがため。
お立場を守ることがあなたの命をお救いする。
そう信じて疑わない。




それが真実であるならば、なぜエノーヌは捨てられた。
立場とは何か。



それは人が人の世の掟として決めたもの。
それでは、神が人に与えた義務とは何か。


恋という情熱はときに人の手に負えぬほど激しく、人の心を覆い尽くし、神の名を呼びながらその神が示す道から遠のかせる。
恋をしてその人を愛おしく思うのならば、そのとき神が示す義務は愛しい人の幸福を願い、それに尽くすことだろう。


イポリットは恋をした。
誠実な彼は、愛しい人の自由と幸福を願った。ところがそこに魔が差す。権力を手に入れる機会が現れる。愛しい人とともに権力をこの手につかめるかもしれない。
愛しい人アリシーは、イポリットに恋をした。そして自由と権力と美しく誠実な恋人を手に入れることを願った。




イポリットに恋をしたフェードルは、その強すぎる情熱に戸惑い、自分の幸福に怯え、愛しい人の幸福におののいた。不安に駆られる心は、エノーヌにそそのかされ、自らが仕掛けた罠に絡め取られ傷が深くなっていく。




情熱と義務の対立は、ネプチューンの神が思し召したことではない。
ただ人がそう解釈し、信じ、その身を投じたにすぎない。

2019年8月16日金曜日

仄暗い海の底から


空という照明はそう簡単に暗転しない。劇場と違って「さあ始まるぞ」と心構えができないまま、演劇が始まる。俳優は浜に立ち、観客は浜に座る。ただそれだけの違い。心構えなど不要であった。俳優が台詞を発した瞬間、私は王族に仕える使用人か奴隷か何かとなり、靴を砂まみれにしながら話を傍観していた。

私には、雲の上の存在である王様方の色恋沙汰はさっぱり理解できない。神に選ばれし人間としてこの世に生を受けていれば、ちょいとばかりはかかわりがあるかもしれないのだが。まあ、そんな私も色恋沙汰に興味がないわけではない。私にだって恋い慕う人の一人や二人いる。嘘。一人だけ。フェードル様はイボリットさまのこととなると、まさしく恋する乙女。エノーヌ様と繰り広げるガールズトークは、見ていて、聞いていて、なんだか私も心躍ってくる。しかし、フェードル様の恋のお相手はイボリット様。血のつながりのない、義理の息子。血のつながりがないからこそ恋してしまったのだろうか。親子という、穢れてはいけない神聖な繋がりにあるからこそ、逆に恋に燃え盛るのだろうか。エノーヌ様やその他大勢が反対するから、その心の炎はより勢いを増すのだろうか。燃えるたいまつから放たれる黒い煙のにおいが、人の情欲の生々しさを感じさせる。きれいとか汚いとかではない、肉欲のもつ強さ。煙がそのにおいを強めるごとに、より欲望も強くなっていく。

 たいまつの向こう側で繰り広げられる世界は歪んでいた。人も、波も、空も、手でグジャグジャにされたみたいに歪み、形を保たない。世界はふわふわして、ゆらゆらして、本当にそこにあるのかどうか分からなくなってくる。自分は本当にここに座っているのか、起きているのか、眼を開いているのか…自らの心さえあるのかないのか。心を支配しているのかされているのか。この気持ちは恋なのか欲なのか。炎のなかに自分がいるようで、いないようで、生きているようで、死んでいるようで。自分はいてもいなくても、どうでも良いようで、良くないようで。炎すら存在しているようで、していないようで。

 目の前が乱れてきた。波が迫り、砂が飛び散り、怒号が飛び交っている。空が暗くなる。炎はより一層赤みを帯び、空から垂れたインクが海を黒く染めていく。迷いだろうか。怒りだろうか。みな、誰かに話しているようで、自分に言い聞かせているようにも見える。心の内を外に出し、それを聞き、また心に戻す。何度も何度も、心臓に焼き印をしていく。人と人がぶつかる。欲と欲がぶつかり、混ざりあい、音を濃くしていく。

恋敵を殺す。恋敵は邪魔以外の何物でもない。これは絶対に確かなことである。邪魔で邪魔で邪魔で仕方がない。その人間さえいなければ、という底知れぬ渇望。自分にとって恋敵は完全なる悪。地獄からの使者。疫病神の化身。人類史上最も忌み嫌われるべき闇。今、ここに好きな人はいない。では、どこにいるのだろう?もしかしたら、恋敵と会っているのかもしれない。恋敵と談笑し、食事をしているかもしれない。その恋敵は最低最悪の人間であることに、なぜ気付かない!!!もはや人間ですらない。ゴミ同然の存在である。もしばったり会ったらどうしてくれようか。呪詛の歌をうたいながら、爪を剥ぎ、わき腹を刺し、のたうち回り、泣き叫んでいる悲しい口元をこじ開け、熱した鉄棒でも突っ込んでくれようか。もしくは、意識がある状態で丸太か何かにしばりつけ、身動きがとれないところを足元から輪切りにしてくれようか。いずれにせよ、奴には痛い目をみてもらわねばなるまい。身体的にも精神的にも。しかしどれほど奴の苦痛を肴に飲み食いしたところで、私の気はおさまらない。もっと、もっと。さらなる苦痛を。宇宙が破滅するほどの痛みを。神がおそれおののくほど狂った燃えカスと化せ。骨の髄まで焼き尽くされろ。なぜ私でなく奴なのか。私には何が足りないのか。知りたくても知ることができない。聞くことができない。勇気が出ない…いつもそうだ。私は愛される権利を持ち合わせてはいないのだろうか。あの人のときも、あの人のときも。いつも私は失敗している。見向きもされていなかったり、大した存在でなかったり。何が原因なのだろうか。よくよく考えてみると、私は愛情表現というものがよく分からない。一番身近だった父と母の間で、愛情表現というものは皆無だった。人を愛するとき、自分はどう動くべきかが分からない。自分が情けない。そんな自分にも怒りが湧く。「いい人」とは、好かれる人のことを指すのではないことが、最近になってようやく理解できた気がする。「いい人」の「いい」に含まれるのは、「良い」ではない。そんな意味は少しも含まれていない。いてもいなくでも変わらない、街中に転がっている石ころと同然の存在であるという意味だ。たまに便利に使えるからいっか。という意味も少し含まれる。人間としての魅力も面白味も色気も生気も何もかもがひとかけらもないから、他に形容する言葉がないのだ。だから、とりあえず「いい」と言っておけばよいだろうという程度。自分でも笑えてくる。どうしてこんな人生になってしまったのか。どこで道を踏み外したのか。決して率先して「いい人」であろうとしているのでは決してない。気付いたら、いつのまにか「いい人」「いい奴」と呼ばれているのだ。「いい人」のまま一生を終えるのは嫌だ。一度でいいから、愛されるということを経験してみたい。お互いに愛し合うことの幸せを感じてみたい…と、炎の中で私はぼうっと考えた。倒れたたいまつから飛び散った油が腕についた。太い針で突き刺されたような痛みが右腕を走り回る。右腕の筋肉が全て飛び起き、苦悶に満ちた表情の赤血球が駆け回る。一瞬聞こえたジュッという音が、なんだか、最後に振り絞った命が必死に腕に喰らいついていることをはっきりと私の腕に刻みつけた。

フェードルが叫んで、入水した。暗い、暗い、不気味な海にその身を委ねた。彼女はこの瞬間が幸せの絶頂だったのだろう。叶わぬ恋だったかもしれない。けれども、やはりイボリットのことが好きで好きでたまらないのだ。誰が何を言ったところで、その気持ちに影が差すことはなかったのだろう。恋心に全てを支配されるぐらい人を愛したフェードルは尊敬に値する。私もそんな風に死にたい。

2019年8月14日水曜日

いつの時代でも人間は愛に振りまわされる

海で遊ぶのは初めてだった。
特に嫌なわけではなかったが、遊ぶ機会が今までなかった。
いざ入水。初めての海は冷たく、水がしょっぱかった。
服装は濡れてもいいように高校の時の体操服で入った。服はめちゃめちゃ海水を吸うのでだんだん動きにくくなっていった。海水に入り、したことは水かけバトル。選手は、はつめ、がじ、だいちゃん、ゆかわの四名だった。楽しかったが、思いのほか、きつい競技であった。

さて、本題に入る。今回はうずめ劇団の「フェードル」という悲劇を見た。
登場人物は、フェードル、イボリット、テラメーヌ、エノーヌ、アリシー、テゼー、パノープ。私は「フェードル」という劇は、「愛」がテーマではないかと思う。イボリットはアリシーに、アリシーはイボリットに、フェードルは息子であるイボリットに禁断の恋をし、エノーヌはフェードルに対して家族愛のようなものをしていた。どろどろの恋愛劇だと思っていたら、劇中に登場人物の三人も死んでしまうという展開。イボリットは旅の途中で、エノーヌはフェードルに魔物扱いされて、フェードルはイボリットがアリシーを愛していること、またイボリットの死を聞き、自分の罪を告白して水の中に入って自殺をする。

私には愛と言うものにみんなが振り回されているように感じた。私は劇中に『自由からの逃走』や『愛するということ』の著者エーリッヒ・フロムと『北斗の拳』のサウザーが頭に浮かんだ。フロムにはかつて愛していた人がおり、彼女の父が死ぬとその後を追って自殺をしたという経験をしている。そのときにフロムは「愛は死に至ることもある」と気づき、この出来事をきっかけに精神分析家になったと言われている。「愛は自分を死に追いやることもある」愛の前では人間は無力であり、自ら死を選んでしまうほどだ。失恋したことがある人は分かるかもしれないが、どうしても精神的に病んでしまう。考えたくもないのにその人の顔や声、仕草を頭に浮かべてしまい、とてもつない絶望感に襲われ、数日、長い人では何年も引きずってしまう。愛するという行為はつらく苦しいものであるのだ。でも、一度では懲りずに何度も人を好きになっていく。なんでだろう。そこで私は『北斗の拳』のケンシロウの言葉を思い出した。マンガの中でサウザーという敵が出来てくる。そのキャラの口癖が「愛ゆえに人は悲しまねばならぬ」や「愛などいらぬ」
である。確かに、私たちは愛ゆえに苦しみを得ている。劇を見ても分かることだ。愛ゆえに登場人物が苦しんでいき、自殺をしていく。ケンシロウはこの言葉に対して「哀しみや苦しみだけではない、お前もゆくもりをおぼえているはずだ」と言う。私たちは、人と人とのぬくもりを忘れることができないのでぬくもりをくれる人をさがしているのである。このことについてはフロムも言及している。幼いころは、無条件に人からぬくもりを得る。私たちも赤ちゃんを見ると触るといったことをするだろう。だが、大人になるにつれてぬくもりを自動的に得ることができなくなる。そこでぬくもりを与えてくれる人を探す。愛してもらうために、自分から行動してぬくもりを与えてくれるように仕向ける。それには「技術」が必要であるとフロムは言う。

私たちは昔でも今でも愛という得体のしれない感情に振り回される。
どんなに発展した現代社会、愛についての研究が進んでも昔と変わらずに愛という感情には勝つことができないのだと感じた。愛は死に追いやることができる、一番残酷な感情、概念であると言える。私たちは愛と言うものに真剣に付き合っていかなければいけないのである。


恋愛について書いている本は少しずつ読んでいる。今読んでいるのはスタンダールの『恋愛論』である。これも少し読んだがなるほどと思った。気になる人は読んでみてください。

海を臨んで

私にとって今年初海、そして何年か振りの入水。小学生振りくらいだと思う。
実は野研に入っておきながら、長らく「海はベタベタするから嫌」とかそんな類の女をやっていた。今日は到着して早々に濡らすつもりのなかった服を盛大に濡らした。
今日の海はお魚突き用の海ではないのでみんな戯れるだけ。なんだってやれば楽しいものだ。綺麗な海で魚を突く、絶対にもっと楽しい。

日が沈もうとする頃今日の本題、うずめ劇場の「フェードル」が始まる。300年程前にフランス人の戯曲家に書かれた戯曲。王妃のフェードルが義理の息子イポリットに恋に落ち、そこから始まるギリシャ悲劇だ。

本当の海を背景に劇は上演される。観劇は時々するがこんな経験は初めてだ。あの場にいた誰もが初めてだっただろうと思う。この作品は海がキーアイテム。フェードルの愛するイポリットも、フェードルを慕うエノーヌも海に飲まれて死んでいった。フェードも毒に蝕まれながら海で死を迎える。波の音、潮の香り、ずっと続く地平線。全てが舞台の情景を思い起こさせた。海でこの作品を行うというのは本当に理想的で、海でしか感じられないリアリティー、激情があった。


私が感情移入をしたのはフェードルとエノーヌ。自分が女性だからか、共感や同情の場面が度々あった。フェードルが相手に思いを告げたあと、自分の気持ちを相手に示すことを明け透けに行うようになった箇所は激しく同意するし、エノーヌが全てを捧げているフェードルに捨てられる場面は本当に苦しかった。確かに、「ちょ、エノーヌ唆かすなって!!」となった場面は多々あった。だけど、それも全てはフェードルの幸せを願って、フェードルにとって何が1番かを自分なりに考えて行ったことだ。フェードルとエノーヌが気心のしれた風に話しているのはとても好きだったのに。フェードルが白状した後の王の反応にも少し落ち込んだ。反応も薄く、フェードルのことを愛情の対象からすぐに除いた。「愛していたのに」ぐらい言ってくれ。最後フェードルが毒によりフラフラしながら、そこにいる人たちに一瞬縋った様子はとても印象的だ。王は一瞥もしなかったように思う。あの作品の中で気にくわない人物No. 1は王かもしれない。
時代背景とか、問題とか色々あるかもしれないが、フェードルが海の中でイポリットとエノーヌと再会はしなくとも海として一体になれたらいいな、と大阪行きのフェリーの展望デッキの上で強い風と波に揺られ、カップラーメンを啜りながら海を臨んで考えている。
いま男性のパンツが私の横を飛んで行った。本当に風が強い。






かなわぬ恋は波のまにまに

迷い込んだ海岸では、太陽とかくれんぼする人たちと何やら忙しげに動く人たち、そして、ミカエル様がいた。
あたりが暗くなり始めたころ、

ザザー、ザパーン、ザサー。
よせてはかえし、
パチパチ、パンッ、ボフォー。
形を変えながらあたりを照らす。
二つのアルケーがこの日、ある悲劇を呼び起こした。

夫テゼーが留守の間、継子イポリートに恋心を認める妻フェードル。打ち明けられた乳母エノーヌ、知ってしまったイポリート。
皆死んだ。妻も継子もかなわぬ恋によって。
愛の女神に憎しみを買っていたこの家系。フェードルとイポリート。テゼーに対する反逆者一族の娘アリシーとイポリート。皆タブーとみなされる欲望に突き動かされる。
テゼーもついにアリシーを養子に迎えた。

エディプス王というギリシアの戯曲ではエディプスは母イオカステーと結ばれ、父ラーイオスを殺した。(最後イオカステーは死にエディプスは自ら盲目になる。)
対し、このフェードルという戯曲では、子は母とは結ばれず、父も殺されないどころか、父は生き子と母が絶命。

皆情熱的に生き。
皆死ぬ。
罪悪感か、運命か。

法や義務は人を縛るか。
法や義務は人を生かすか。

情熱的に燃え、そして、立ち枯れた一本の大天使がニヤリと笑いかけた。ような気がした。