2020年2月5日水曜日

果てしない壁の目への冥想

荒木飛呂彦が語る「壁の目」の逸話。
「『壁の目』と呼ばれる地面のなかに二つの物体を埋めると、それらが混ざり合う」
「たとえば、レモンとミカンを一緒に埋めると見た目は変わらず中身が混ざり合う」

こんな場所がこの世のどこかにありそうな気分になった、ある日の話。



二十人以上の異邦人が城をめざして北進するのを見届けたあと、各地に散らばったエージェントたちを上空から回収する。総員出動する事態だったため、エージェントたちのアフターケアに追われることとなった。

回収のさなか、給油班から緊急の応援要請信号を受けた。確認すると、すべての班のオイルが底をついていた。ひとまず実働部隊員の回収を全て終え、休む間もなく給油班へオイルを運搬し、タンクへ充填する。

回収されたエージェントはシャワーを浴び、仮眠をとる。エージェントの任務は、簡単にいうと、異邦人らの食糧調達の支援である。なかにはエージェントの支援を必要とせずに自らの力で食糧を調達できる手練れもいるが、ほとんどはエージェントとともに調達する。あるものは陸へ、あるものは海へ。できるかぎり異邦人らの希望に沿って、食糧を現地調達する。任務を終えた者はみな、満身創痍であった。全員のケアが終わり、全員が仮眠をとっていることを確認すると、私は現場に散乱した瓦礫や破片の撤去を行う。

ほぼすべての作業がおわり、ようやく私にも休憩時間が与えられた。イスに座り一息ついていると、目の前に一人の長身の男がやってきた。

黒いキャップをかぶったその男は、肘のあたりまで伸ばしたグシャグシャの髪を揺らしながらエージェント1組の支援を要請してきた。男はウェリントン型の眼鏡の奥から不穏な笑みを浮かべ、首にぶらさげたカメラを撫でていた。眼鏡に反射した鈍い光がコンクリートの地面を舐める。

しばらくして戻ってきた男は、エージェントの支援を存分に活用したようで、満足げだった。瞳の住人が恍惚とした様子で踊っている。

私は男としばらく言葉を交わした。男はワタライノクニからやってきた文士であった。小学生の娘が1人いるという。甥が建築の学問を志し、タンバノクニの大学に進学するも、自堕落な生活を送り、留年を繰り返していたと嘆いていた。右肩にかかって変な曲がり方をした髪先があっちを向いたりこっちを向いたりしていた。

文士としての男は、旅の記録や単車の情報の記録をしているという。現在は前線から遠のいた活動をしていると遠い目をしてつぶやきながら、シャッターを切っていた。

間のとり方が特徴的な男であった。文節で区切った喋り方で、文節と文節の間が必ず「2秒」空くのである。声色は豊かで、どのような気持ちなのか分かる喋り方ではあるのだが、鼻から下の表情がまるっきり変わらないのである。相変わらず目の表情は怪しく、踊っていた瞳の住人もじっと座り、私を見ていた。目じりがやたらくねくね動くので、眼輪筋が独立して意思を持っているようだった。

男はもとは二人の男だったのだろう。きっと、頬を境に二人の男の体をつなぎ合わせたのだ。私は次の現場に向かわなければいけなかったので、男を見送ることはできなかった。しかしあの男には、禍々しい光を漏らしながらどこかを歩いていてほしい。瞳の住人には、酩酊するまで踊り続けていてほしい。二人でも三人でもくっついた人間が一人や二人いたってそれはそれで楽しいではないか。外見としての者ではない別の者が瞳の中に部屋を借りて暮らしたり、血管の中を自由に泳いだりするのも、楽しそうではないか。


荒木が語る「壁の目」のような場所が本当にあるのではないか。家の裏山にあるかもしれないし、学校の敷地内にあるのかもしれない。
きづかぬうちに「壁の目」の中にすっぽり埋まってしまっていてもおかしくない。
この世に生を受ける以前から、「壁の目」の中に存在していた可能性。

未知のなかに投げ込まれつづけてきた過去。
中にいるのか外に出ているのかわからない現在。
這い出ることができないほど埋まっていくかもしれない未来。

世界そのものが「壁の目」だとして、世界から脱却し楽園への舟に乗るか、もしくは奈落への吊り橋を渡るとしても、脱却した者の意思は世界に留まりつづける。その意思が、まだ脱却することができない者の意思と混ざり合うこともあり得ない話ではない。世界から脱却しても、いつの間にか、また世界に戻っている道のりも存在する。

混ざり合うこと。心地よさと、ほんの少しの恐怖心。

2月4日、果てしない「壁の目」への冥想がはじまる。