2023年4月29日土曜日

思わぬ再会

 

いつもと違う柔軟剤の匂いは、この体を駆け回った昨日の快感の象徴となった。呼吸をするたびにその匂いは胸を満たし、心臓を突き破った喜びの鮮血のしぶきを放ちつづけた。

「おはよーがじ」

上体を起こすと、この家の末娘が立っていた。結んで頭上に反らした前髪をぴょこぴょこさせながら、姿見の前で朝の支度をしていた。昨晩の私の寝床を用意してくれたのは彼女だ。昨日第3回WAKAZONOタウンパレードが終わり、打ち上げもそこそこに、私はこのナカジマ家の人たちと過ごし、そのまま家に泊めてもらったのだ。

 

 およそ3年ぶりの再会だった。公園の人だかりのなか、大學堂リヤカーの前をうろうろしていると、僕の目の前で歩みを止め、

「あれ、がじろうやない?がじろうよね?」

と近寄ってきた女性がいた。カホさんという人だ。ナカジマ家の親戚なのか親友なのか正しいことは知らないが、よく一緒にいる印象のある人だ。

「あたしのこと覚えとる?」

「!ナカジマさんとこの、カ」

「そうそう!あ、まってちょっと呼んでくる」

カホさんが踵を返した瞬間、その目線の先から

「がじやん!ひさしぶりやね~」

と、向かってきたのはミユキさんだった。快活な様子は3年前から変わらず、4人の子どもが可愛くて仕方のない様子も相変わらずだった。

「パパもヒナもあとから来るけ」

パパというのは連れ合いのテツヤさんのことで、ヒナというのは4人の子の3番目の末娘のことである。




 テツヤさんとミユキさんとの初対面はエイト会だった。今はもう行く気は無くなったけど、エイト会に参加したばかりの頃に同じ席になったことがきっかけで、何度か家に呼んでもらった。カホさんとその家族とお喋りしたのもその流れだった。

 ただし、どれも3年ほど前のことだ。私は月に1度ぐらい会って、プライベートなことまで話していても、次に会ったとき相手はたいがいのことを忘れていることがよくある。腹立たしいが、しょっちゅうある。3年ほど前に会ったきりの彼女らからは完全に忘れられていると踏んでいた。

しかし、覚えていた。雑踏のなかで目が合った一瞬に、僕の名を呼んだのだ。名を呼ばれた瞬間、脈が一拍、電気を帯びた。パレードの会場で会えたという事実が喜びを上塗りした。エイト会かなにかで告知があったのだろうが、それでも足を運んでくれたという行動が嬉しかった。ひとしきり話したあと彼女らは一度家に戻ったが、タウンフェスの後半には前列のブルーシートに腰を下ろし、家族揃ってライブを楽しんでいた。

 


 

目の前に並ぶ卵焼きは薄い湯気をまとい、醤油の甘い香りが私のあごをくすぐっている。

「うちは役員とかなんもしてないけど、それでもうれしいんよ…しゃーしーちゃ、ビビ」

テツヤさんはそういうと、どうにもうまく作動しない電子タバコを諦め、代わりに焼酎を口に含んだ。飼い犬のビビが妙な着物の来客を見て警戒し、リビングで何度も鳴いた。

「北方とか城野とか、他では聞かんもんね。若園でああいうことをしてくれてるっていうのが。うれしい」

テツヤさんは屈託のない笑顔でそう言い切ると、座椅子にもたれた。

「はじめは、みなみまつりみたいなお祭りをしたいっていう話からはじまったんですけどね。はじめから若園を盛り上げようとか、そういうのでは」

「そうやとしても、ああいう場所があるっていうだけでも、俺らからするとうれしいんよ」

「たべりいよがじ」

テツヤさんの話に相槌を打ちながら、ミユキさんが作った卵焼きを口にした。味蕾が醤油と熱い抱擁を交わした。蒸発しかけていた空腹が再び着地した。そうだ。打ち上げで食べたのはイカの塩辛ぐらいだった…

「つづけていきたいですよね」

ユーキさんがグラスを飲み干して、言葉を発した。ユーキさんは私が小学校に入った年に北九大を卒業している。若ワク会やエイト会のなかでも少し異質に見えるのは、年齢の若さ故だろうか。テツヤさんたちとはずっと交流がありそうな仲だった。

「正直若手がいないのがキツいですよね。もう僕らが一番若い感じになってしまった」

ユーキさんは連れ合いのミオさんと目を合わせた。私はこの家に来る道中を思い出した。簡素なつくりをしていた小さな居酒屋が、入っていた建物ごと取り壊されていた。跡地は私より少し背の高い、白い板で取り囲まれていた。二度とこの場所から人の声が聞こえることはないのだ。人の営みも建物の残像も、はじめからなにもなかったかのように瓦礫の海をひた隠しにする白い板は、霊園を取り囲む森林のように整っているが、見ているとどこか苦いものが首をもたげる。パレードやタウンフェスで賑わっている最中、あの場所には何も生まれず、何も残らなかった。そしてそのことに私は気がついていなかった。

 

あぐらをかいた左足に温かいものを感じた。ビビが丸まって小さな寝息を立てていた。皿に残った黄色い切れ端をつまみにして、ビールを流し込んだ。楽しい話も暗い話も驚く話もシラケる話も、こうしたこじんまりしたときが一番噛みしめることができる。こういうときが一番楽しいと仙骨の奥底から響く声がする。暗い話もシラケる話も楽しいとはどういうことか。振った賽の目がどこを向くかに神経をとがらす感覚に近いかもしれない。鉈を片手に、獣道を辿っているような不安。どっちに転ぶかわからない不安定さという楽しさ。“エンジョイ”とは違う楽しさ。楔が手のひらにずんと打ち込まれるように、質量を含んだ快感がここにある。

実際に自分はそこにいるのだけど、輪をかけて、突き上げるような臨場感の渦潮の中に身を投げている快感がある。間欠泉のように動く心。濁流に乗ろうか、抵抗しようか。このせめぎあいは確実に体力を消耗する。ときには気力までめりめりと音を立てて削がれる。しかしこのどうしようもない楽しさを小さな現場で摂取したいと望む心の枯渇がある。

 

ユーキさんとミオさんを玄関で見送ろうとすると、二階の自室からヒナが明日の準備も兼ねて下りてきた。私の知らぬ間に高校生になっていたヒナは、キャリーケースにタオルやらなにやらを詰め込んでいた。遠出するのだろう。

「がじはこれね。これで寝て」

ヒナはマットレスや枕や毛布を二階から引っ張り出し、リビングの奥で整えると次は洗濯機を回しはじめた。日替わりで決まっている当番かのように、慣れた手つきだった。酔い覚ましに歯を磨こうと歯ブラシをもらった(曰く、『学校の友達がよく泊まりにくるけ』)。ヒナが洗濯機を確認しに戻ってきたときに、タウンフェスに来てくれたことについてあらためて感謝を告げると

「ん」

とだけ返ってきた。それがなんだかうれしかった。


ビビ



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