海へゆく。
ほんとうのところを言うと、海よりも山がすきだ。ということを、海を愛する人たちになかなか主張できないでいる。車窓にながれてゆく、緑の滴る夏の山を眺めながら思った。
巨大な煙突がのびたセメント工場や雨風で色のあせたレストランを過ぎて、田圃のひろがる道をひたすらゆく。山を越えると、梅雨のおわりの明るすぎる日差しのなかに海が見えた。
予想ではくろぐろと凪いでいた海は、ひどいうねりと高い波でわたしたちを歓迎した。ざぶんざぶん。やれやれ。海においては無力のなかたねとわたしは、泳ぐことはおろか、沖に出てゆくこともできない。波打ち際でもんどり打ちながら、手袋やシュノーケルを流されてゆくばかりだ。意を決して大介が呼ぶ方へ泳いでゆくが、水中は濁りきっていて何も見えない。その間にも波はつぎつぎに襲ってくる。死にたくない。わたしはきぞくの言うところの「びびり」だ。不信仰だ。垂直のすべり台を滑れない人間だ。疲れ切って浜辺に座りこむわたしの上に、太陽がむなしくかがやいていた。
ひどい海はあきらめて、角島にレジャーにいっちゃおう。冷たいものでもたべよう。
祝日をたのしむ人々の群れを避けて、北のいちばん端へ。草木が繁ったせまい道を抜け出たさきに、7月のさわやかな風が渡る、うつくしい岬があった。
甘い草いきれが鼻を満たし、ぎらぎらとひかる海の青が目を刺す。遠くでちいさく鳥が鳴いている。やさしい潮風に頭をまかせたとき、わたしの卑しいエゴティズムが溶けていった。あなたの流れが全身をかけ巡る。うれしい。ただ生きていることがうれしい。なのに、尚早なツクツクボウシの声が、心臓に鋸を当てられたようにかなしかった。夏と秋の間にはさまったままの父。
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