2025年3月30日日曜日

ベトナム逍遥 -喧騒のハノイ-

 2025年2月22日

ひとりで旅をしてみたい。「コワイヨ」と「フッチャンノ」が口癖だった幼い頃の私は、スニフのように臆病で欲張りな性格だった。しかし、スニフだって彗星を探しに冒険に出たのだ。私も修行を積まなければ立派なフィールドワーカーにはなれまい。そして何より、誰も行ったことのない場所へ出てひとりで冒険をしてみたい。1番安かったベトナム行きのチケットを予約して、ついにひとり日本を発った。


予約したのはベトナムのLCCベトジェット。ホームページはガタガタですでに怪しく、もしかして詐欺なんじゃないかと何度も確認したがどうも福岡空港から毎日飛行機が飛んでいるらしい。LCCの行列を避けるべくオンラインチェックインしたのに、乗る前に紙の搭乗券を印刷された。のちにハノイでも結局列に並ぶことになった。列には帰国するベトナム人のほか、若い日本人グループやカップルが意外に多い。タイやマレーシアのように安価な海外旅行先として人気なのかもしれない。なんとか無事に飛行機に乗れたが、巻き髪のCAはちょっとけばいし、座席に備え付けられた机は左に傾いている。ともかくきちんと飛んできちんと着陸してくれさえすれば良いのだ。カポーティの『夜の樹』を読みながら5時間、ついにノイバイ空港に到着。人々が分厚い上着を脱ぎながら入国ゲートへ向かってゆく。私もダウンと極暖パンツを脱ぎすてて空港を出た。勢いよく押し寄せるバイクタクシーの波をすり抜けて国内線への連絡バスに乗りこむ。席に座った途端、乗り込んできた女性にベトナム語で話しかけられた。

「○○○○○○○?(このバスはここにいくのか?的なことをいっているらしい)」
「Sorry, I'm Japanese」
隣りに座っていた青年が代わりに答える。
「〇〇○○○○(行くよ的なことをいってるぽい)」
向かいに座った彼女は突然日本語で話しかけてきた。
「日本人ですか?どこに行きますか?」
「日本語喋れるんですか?!ここへ行きます」
Googleマップを見せると、女性が青年と相談し始めた。ここへ行きたいそうだけどこのバスで大丈夫か、的なことをいっているらしい。
今度は青年が私に話しかける。
「このバスで大丈夫です」
君も日本語しゃべるんかい!初っ端からふたりも日本語話者に出会えてしまった。
5分ほどの道中で話したところ、女性は日本で仕事をしていたらしい。ベトナムでは意外と日本語を話せる人が多いのかもしれない。

国内線ターミナルでバスを乗り換える。Googleマップの表示が当てにならないので通りすがりの人たちみんなに聞いてみる。英語で話しかけてみるも首を振って逃げられるので、ベトナム語で挨拶をして翻訳機を使う作戦に切り替えた。道を聞いている間もGrab(大手配車サービスだが、制服を着て従業員の振りをするエセGrabがハノイ中に横行している)に声を掛けられる。逆に「このバス停どこ?」と聞いてみた。エセでも親切なので、仲間の青年たちと相談して「あっちだよ」と教えてくれる。教えられた方向に歩いてみるもどうも逆方向のようだった。反対方向に歩いていると、先程の青年に「チ、オーーーイ!!!!」と遠くから叫ばれた。びっくりしてつい「あっちだと思う!あっち!!」と日本語で返してしまった。後に分かったことだけど、ベトナム語で「チ」=「お姉さん」、「オーイ」=「すみません」「わお」「よっす」「ねえ」くらいの意味らしい。初めて聞いたときは、舌打ちして怒ってるみたいに聞こえて少し怖かった。ベトナムは町並みも中国に近い感じだけど、言葉も似ていて中国語を少し転がした感じだ。

緑色のヘルメットがGrab

ベトナムの交通手段について調べると、Grabのような配車サービスが主流のようだ。バイクの保有率世界2位を誇るベトナムでは、ジモッチはバイク移動が基本らしい。観光客はバイクタクシーを利用することが多いようだが、ハノイ市内ではバスも走っているようなので安価なバスを利用することにした。ちなみに空港から市内へは1時間で約270円とかなり安い。
ベトナムには交通系ICのようなシステムがないため、バスも現金で乗ることになる。乗りたいバスに乗り込み座席に座ると、スマホをいじっていた乗務員が気だるそうに来てどこに行きたいか尋ねられる。どこそこに行きたい、と言うと謎の機械で領収書を発行されてお金を徴収される。

市内へ向かうバスに乗って、まずは両替をしに旧市街へ向かった。旧市街といえばハノイ最大の観光地だけれど、その実態は生物、食物、装飾、汚物ありとあらゆる物が溢れかえるカオス天国だ。道など知らぬとばかりに縦横無尽に走るバイクは、古代バビロニアに攻め込む戦車のように善良な歩行者を襲ってくる。最初こそスリリングな体験を楽しんでいたが、私の脳みそはそのあまりの混沌さにしだいに認知能力を失い、滑り込んできたバイクに軽くぶつかってしまった。もはや「生き残ること」にしか意識が向かない。気力に限界を感じて早々に旧市街を後にした。
コピー屋が多い。A0ってなんだろう。

中心地を離れて、まずはヴァンフックというシルクの工芸品が有名な村を訪れることにした。バスで30分ほど走って遠くまで来たような気がしたけれど、思ったよりハノイと変わらない騒がしい街だ。「工芸村」という名前で観光地として売り出しているのか、アオザイの店が並ぶ街がカラフルに装飾してあった。欧米人の観光客も数人歩いている。路地に入ると紡績機なのか、カタンカタンと音が聞こえてくる。浮き足立って街の寺院を歩いているといつの間にか私有地に入り込んでしまったようで、厳しい顔をしたおばあちゃんに叱られた。天気の悪さも相まって、外国にひとりでいることが心細く思えてくる。

ヴァンフックの入り口

シルクの店が並ぶ観光地

寺院が多い

天気悪し

そうこうしているうちに日も傾いてきたので、近くで見つけた食堂に入る。ベトナムといえばフォーを思い浮かべる方も多いだろうが、実際ベトナムのレストランの8割は米麺の店と言っても差し支えない。町の飲食店はフォーまたはその亜種、もしくはバインミーに占拠されている。このとき通りかかった店は丸鶏がぶら下がるフォー・ガー(鶏肉のフォー)のお店で、何かくれと言うと大きなどんぶりいっぱいのフォー・ガーを出してくれた。茹鶏とニラとネギがたっぷり入っている。瓶に入った大根の漬物や小さなザルに入ったパクチーやかぼすを一緒に食べろとジェスチャーしてくれた。鶏のだしにほっとする。途中でお店の幼い子供たち3人も隣で夕ご飯を食べ始めた。孫にせがまれておじいちゃんが海苔をたくさんあげようとするのを、おばあちゃんが止めている。「おかずはたくさんあるでしょ!」「まあいいじゃないか」という風情。あるある。お腹がいっぱいになったところで、近くに宿はないかおばあちゃんに尋ねてみた。

大きな丼

指示された方向に歩いたものの、宿みたいなものは見当たらない。日がだんだん暮れかけて次第に焦ってきた。近くにあったベーカリーの店主に「この辺りに泊まれるところはありますか?」と翻訳機を向けると、困った顔をして30代くらいの息子を奥から呼んできた。親切そうな顔をした息子は片言の英語で話しかけてくれる。
「このあたりで安く泊まれるところを探しています」と翻訳機で尋ねると、しばらく思案して店の壁に貼ってある看板を指差す。
「ここはどうかな?」
読めないけど。
「ありがとう。どこですか?」
電話してあげるよ、と言ってその番号へかけてくれた。
「ちょっと待ってね」
「ありがとう。値段はいくらですか?」
2500.000VD、と数字がわからない私のためにノートに書いてくれた。12000円、ちょっと高い!
「ちょっと高いですね」と言うと、また困った顔で考えてくれる。息子にうながされて店の裏の建物に案内される。どうみても一般の古い住宅といった風情だ。そこにいたおじいちゃんが鍵を開けて中に入れてくれた。なぜかその辺にいたおじさんと子供たちも野次馬的についてくる。おじいちゃんがオーナーらしいが、やはり見た感じホテルではなくふつうの住居である。階段を上がるとシャワーとトイレはあるが、窓のない薄暗い部屋の中にはスノコしかない。ここに寝かせてくれるってことかな?と困っていると、どうも話が食い違っている。息子は1ヶ月12000円の貸家を案内してくれたようだ。あわてて「ワンナイト!ホテル!」と訂正すると、一同顔を見合わせてア~という顔をしている。そりゃ安いよね。

ぞろぞろと家から出てくると、息子がしばらくここで待ってろと言う。5分後に息子がバイクに乗って戻ってきた。後ろに乗れということらしい。悪い人ではなさそうなので、勢いで乗り込むと、すぐに宿らしき場所に連れてきてくれた。たいていベトナムの宿にはHOTELの表記がなく一見分かりづらいが、どうも細いプラスチックの暖簾が掛かっているのが宿の印のようである。彼は宿の主人と知り合いなのか、なにか言い合いながらずかずかと長い階段を登って勝手に部屋まで案内してくれた。大丈夫だろうか。「値段は一晩250VDで、チェックアウトは12時。ここで休んだらいいよ。俺は店にいるからなにかあったらいつでも呼んで」

とりあえず重い荷物を置いてひと息。通りすがりの旅行者なのに、なんて親切な方なんだろう。ともかく今夜の宿が見つかった。ベッドでいっぱいになる狭くて古い部屋だが、シャワーとトイレもついている。トイレットペーパーはないけど。窓がなくかなりの湿気が漂っているけれど、扇風機は付いている。1500円なら良い方かもしれない。汗を流すためにシャワーを浴びると、ちゃんと温かいお湯が出た。部屋でぼんやりしても仕方がないので、下に降りて宿の主人と会話を試みてみた。1階は宿の経営者家族の住居になっていて、おばあちゃん、息子、孫が居間でくつろいでいた。そして家政婦らしきおばちゃんが台所で料理している。階下におりるやいなや上品そうなおばあちゃんが厳しい顔で「250.000」と打たれた電卓を見せてくる。外国人だからちゃんと支払えるのか心配しているのかもしれない。その場で現金で支払うと少し態度がやわらかくなった。ちなみにベトナムではクレジットカード決済はほぼ普及しておらず、代わりにQRコードを使用した電子決済が主流となっている。ただ、この決済サービスはベトナム国内の銀行口座が必要となるため、外国人が利用するのは難しい。外国人は常に現金をある程度持っておく必要がある。

居間で手持ち無沙汰に突っ立っていると、かわいそうに思ったのかおばあちゃんが椅子を勧めてくれた。螺鈿細工のついた椅子だ。孫が釘づけの大きなテレビや豪華な調度品を見る限り、お金持ちの宿屋なのかもしれない。孫をダシにしておばあちゃんたちと話をしたいが、孫はテレビから流れる欧米の子供向けYoutube動画に夢中である。くそう。この際孫は無視して直接おばあに話しかけよう。
少しだけ勉強したベトナム語で「日本人です」と言ってみるが、首を傾げられる。発音が悪いのかも。諦めて翻訳機を使う。
「ベトナムでお茶を作っている場所を知りませんか?」
おばあも息子も首を傾げる。
「どこかおすすめの場所ありませんか?」
「ヴァンフックはどうか?」と困惑しながら息子が答える。
今日行ったんです、と言うもうまく伝わらない。
「ここから歩いてすぐ」とGoogleマップを見せてくれる。
「すぐだね。いいですね」と調子を合わせていると、息子が立ち上がってついてこい、と言う。調子を合わせてついていくと、今日歩いたヴァンフックの通りを案内してくれた。日は沈んで店はほぼ閉まっている。
「明日来なさい」
「そうですね。ありがとう」
「どこから来たのか?」と聞かれ、Japanと答えるがなかなか伝わらない。何度かJapanと繰り返すと「アー、ザパン!」と通じ合えた。どうもジャパンではなく、ザパンらしい。

部屋に戻ると、急激に心細くなった。言葉もわからないし、行くべきところもわからないのに、こんなベトナムくんだりまで来てしまった。あと16日もここで何をしたら良いのだろう。

サイバー社会主義

部屋に小さなゴキブリ

宿のおばあと孫

小籠包

2025年1月17日金曜日

「かずゑ的」

 9歳か10歳の曇りの日、勢いよく海に流れ込む真っ黒な遠賀川を見つめていた。寒かったのか暑かったのか覚えていない。この流れに飛び込んでしまったらどうなるだろう。死ぬのかな。お母さんはどう思うかな。そのとき、堤防のコンクリートのちいさな赤い点が徐にうごきだした。あれは虫だったのだろうか。あの頃「死」はまだ遠くにあって、姿かたちの定まらないものだった。でもその影はやさしげに頭の上をちらついていた。   
 波に反射した光が揺らめくように、いつの間にかまた90歳のわたしへ戻っていく。瀬戸内の太陽はあまりにも明るくて、あの頃の痛みもかなしさも何もなかったように波がぎらぎら光っている。 
「死ねば楽になったろうなーーーーーーー」 
「私、全部受け止めて.........。逃げなかった」 
指が溶けて目もあまり見えなくなったわたしの上に、変わらない木漏れ日がしずかに降りそそいでいる。  
 この瞬間の煩悶も、悔いも恥も、高揚も喜びも、いずれそうやって遠い光のなかにうすらいでゆくのだろうか。それならかずゑさんのようにひたむきに、この一瞬一瞬を惜しみながら生き抜きたいと思った。                                                                                                           小籠包

2024年9月28日土曜日

能登へ

 深い山や海のそばに立っていた家々は、地震と津波で何度もゆすられて、なぎ倒されて、へしゃげて、もとの形を失っていた。住人のいなくなった村や町で、積まれた瓦礫がしずかに片付けられてゆく。何年もかけて作り上げ守られてきたはずのものが、最初から何もなかったかのように更地へと帰ってゆく。



隆起で白くなった岩に激しく波がぶつかる。

海は変わらずどぎつい光を繰り返す。

ざあ、ざあ、ざあ、ざあ―

人間がこんなに哀しいのに、あんなに海は青いのか。



帰り道、塩田に立つひとりの人夫を見た。燃えるような西日のなかで、ひたむきに四肢を動かして海水を撒いていた。
ああ、哀しくはなかったのか。
たくさんのものが壊れて失われても、人間は生きていて、美しかった。


小籠包

2024年4月21日日曜日

エチオピア学会なるもの

みんながさまざまな仕事に尽力している間、ひとり抜けて第33回日本ナイル・エチオピア学会に行ってきました。連日MOGAやタウンパレードでバタバタのさなか、失礼いたしました。

私は学会員ではないけれど、金子さんの口利きで、エチオピアに関心を寄せる非常に熱心な学部生として心安く受け入れてもらったのでした。エチオピア学会の会費はさらに値上がりするかもとのこと。50人もいないくらいの学会だったから、続けていくのも大変なのでしょう。学生特権をありがたく享受しました。


4/19(金)

飛行機で成田へ飛び立つ。中目黒のエチオピア料理店「クイーン・シーバ(シバの女王)」で、東京の友人と待ち合わせる。地下のこじんまりとした店内には怪しい仮面や絵画が並び、天井からはシマウマの毛皮が垂れ下がっている。案内された席には、動物の皮が飾ってあった。捕えられた女性を助ける英雄が描かれているようだ。四者四様の意味ありげな視線がポイント。






フムス(ひよこ豆のぺースト)を揚げたもの、羊と鶏の串焼きのあと、ついにインジェラが運ばれてきた! インジェラはエチオピアの主食で、テフという穀物を発酵させ、薄いパンケーキ状に焼いたものだ。オペ看の友人は、その色と表面の穴ぼこを見てひとこと「肺みたい」と言った。

インジェラの上にはのっているのは、牛肉のカレー、煮込んだ羊肉、スクランブルエッグなど。素手でインジェラを少しちぎって、具材と一緒に食べる。口に入れた瞬間、緊張する匂いと味がひろがる。発酵による酸味と、湿度の高い生地、スパイスたっぷりの具材がなんともいえないマリアージュを繰り広げてくれる。



 静かに食べ進めていると、突然スーツ姿のエチオピア人たちがどやどやと店に入ってきた。ネットで調べると、目の前のエチオピア人が教育大臣として外務省のニュースに掲載されていた。なんというmiracle。アムハラ語の挨拶を調べて、英語で声をかけてみる。


"Are you a minister of education?"

"No!"

"Oh!(めちゃ恥ずかしいやん) Really?!"

"No!"

"Why did you find it? Did you check?"

"(やっぱりそうなんかい)Yes, I checked it!"

"Oh you're a very brave girl."

"Yeah, I'm a student of Kitakyusyu university."

"Where is it?"

"Kyusyu. South of Japan. "

"What do you study?"

"Anthropology. I came here to participate the Conference of Ethiopia in Toyo university tomorrow."

"Oh good."

"Actually, I hope to study abroad in Ethiopia, Adis Abeba university. "

"Nice."

"Very nice to talking with you."


店を出ると、エチオピア大使館の車が停まっていた。路駐していいんだ。





4/20(土)

上野の弥生美術館へ。勉強のために夢二の絵を見に行く。夢二の動物はなんとも言えないゆるさだ。





印象的なのはミュージアムグッズ。大量のポストカードにはじまり、一筆箋、メモ帳、ブックカバー、トートバッグ、アクリルスタンド。あらゆるグッズが、小さな美術館の一角を占領している。小さな美術館だからこそ、なにかおみやげを買って帰りたくなるのだろう。デザインもすてきだ。

MoGAのチラシも置かせてもらった。



 午後からは東洋大学でシンポジウム。月経とサニテーションの課題についての発表。唯一の知り合いの金子さんに、学会の主催をしている東洋大の中村さんを紹介してもらった。はじめての学会で緊張していたけど、30人くらいのちいさなシンポジウムだった。台南のシンポジウムのときは誰にも声をかけられなかったので、ここでリベンジに燃えた。懇親会では会長の田川さんの隣に座らせてもらって、たくさん話をした。大介のことも大學堂のこともご存知でした。

「大学院にはいくの?」

「うーん。いろいろ考えるのですが、どうかなと」

「考えない。(周囲のエチオピア研究者を見渡して)ほら...何も考えてない。こんなことやってる人たちだからね。研究の道に進むってだけでも何も考えてないのに、アフリカ研究だからね。まあ、マイナスとマイナスをかけてプラスかな」

アムハラ語の集中講義をする若狭さんが相づちを打つ。

「そうですね。私なんて、オモロ語の受動態の接尾助詞は従来高いと考えられていたけど本当は低いこともあったんだって言って喜んでるんですから。アフリカ言語なんてやってるやつは更にマイナスかかりますよ」





4/21(日)

発表の日。寝ないように朝からコーヒーをしこむ。

開始時間の5分前に会場に入ると、北九大のC教室みたいな場所に40人くらいしかいない。開始時間を過ぎたあともちらほらと人が入ってくる。5分くらい過ぎてからゆるく始まった。

エチオピアはショア地方のパン文化に始まり、農業や建築、開発などさまざまな分野の発表があった。参与観察とか半構造インタビューとかよくわからない言葉がたくさんあったけど、ベルが鳴ったあと話し続けても怒られないとか、さり気ない冗談の言い方や笑い方を学んだ。発表もわからないなりに面白かった。質疑応答があまり出ないのが意外だった。




昼からはポスターセッション。発表のあと、探検部の藤本さんや曽我さんと話していたら出遅れた。すでに人だかりができていてうろたえる。まごまごしていたら、金子さんが話に入れてくれた。

ぷらぷらブースを回っているうちに、「ポスターより先に発表者に視線を合わせるんだ!」と気づいた。発表者に声をかけると、先に内容を説明してくれるし、流れで自己紹介もできちゃうのか。人見知りでついついポスターに逃げてしまっていた。


面白かったのは、エチオピア正教と重婚についての発表だった。エチオピアでは伝統的に一夫多妻だけど、キリスト教では重婚が認められない。矛盾しているようだが、むしろ重婚を許す存在としてマリア信仰が盛んになった、というような内容だった。発表者の方に「正教に興味があるなら、ゲエズ語の研究会に参加しませんか?」とお誘いをいただいた。全然分からなかったけど『チャンスを逃すな』というはでぴの言葉が頭をよぎり、一も二もなく「ぜひ!」と答えてしまった。これから私はどうなるのだろう。プラスになれるようにがんばりたい。



                小籠包










2024年3月1日金曜日

「リース遠征隊」を見て

 だれかを助けたり応援したりするのは、それほど難しいことではない。
もちろん、車椅子を引いて雪山に登るのは簡単なことでもないけど。

むしろ、クレイジーな物事に熱心かつ忍耐強く取り組むことや、そのために他人に責任を負うことのほうがよほど大変だ。人に迷惑をかけないで生きようとするほうが簡単なんだと思う。多少の迷惑はかけても、それ以上の喜びを与えられる人間になりたい。

そして、
すべての山にのぼって
すべての川をわたって
すべての道をたどって
いつか情熱を持てるものが見つかればいいな。      

                                  小籠包



2023年12月24日日曜日

胸がいっぱいの一日

 2023年12月23日(土)クリスマスの前日。

今週は雪が降ったりして寒い日が続いていたけど、今日は少しいいかな、というくらいの日和。

19日にグランドオープンした昭和館に映画を観にいく。

「ニュー・シネマ・パラダイス」

とても有名な、評判の良い映画なのだけど、これまで、観たことがなかった。

観たいなと思いながら機会を逃していたと思っていたけれど、観おわってつらつらと考えてみれば、この映画は1989年の作品で、その頃の私は、「ノスタルジックな泣ける映画」を観るような心の在り方ではなかったのかもしれない。恥ずかしながら、同じ年の「バックトゥー・ザ・フューチャー2」は映画館で観ている。

映画のあらすじや評価なんかもいろいろ忘れた状態でノスタルジックで泣ける映画という以外に予備知識がないまま観た。予備知識がなくてよかったと思う。

主人公と共に思い出にひたり、主人公と共に心が揺れた。


お昼ご飯の調達を兼ねて旦過市場を歩いて、そのまま芸劇へ。

ちなみにお昼ご飯は、やすのさんのスコッチエッグ。かまぼこの中にピンクの茹で卵が入っている。かまぼこが美味しいから、一個丸ごと食べても嫌味がなくてさっぱりとしている。


チャンチャン劇団の定期公演。

知的障害のある団員さんがミュージカルとパフォーマンスを披露してくれる。まあ、障害者の宝塚のようなものだと思ったらいいかもしれない。内容はコメディーだけど。

2014年の講演からだいたい観ている。観ているうちに団員さんたちを個別に見分けられるようになったし、密かに推している団員さんもいる。つまり、ただのファン。

今年もベテランさんの安定のギャグが冴える。

これまであまりセリフを言わなかった団員さんに今年はセリフがあって、嬉しくなったり。

団員さんたちは、案外と会いに行けるアイドルで、作業所のカフェなんかで店頭に立っていたりする。街で団員さんに会うと嬉しくなる。

団員さんが頑張っている姿に、支えられた気持ちになって、自分も頑張ろうと思う。

つまり、ただのファン。


2023年12月14日木曜日

嘉徳

嘉徳浜、奄美大島の南東にある入江。KATOKU beachという名で日本よりも海外の方が有名かもしれない。

南種子や西表の西部など、私はこれまでたくさんの美しい海岸に泊まってきたが、それに勝るとも劣らない豊かな浜。海と浜と川と山が見事に調和した小宇宙。

この浜にコンクリートブロックを並べるという計画が進行している。

どんな立派な文化遺産よりも、歴史ある遺跡よりも、人智を超える自然が作り上げた見事な景観や生態系の価値は、計り知ることができない。

しかし、なぜこの国では自然や環境の保全に税金が使われないのだろうか。なぜ生態系が私たちに与えてくれる、たくさんの恩恵に対する資源価値や経済効果を、そのほんの一部でも正当に評価できないのだろうか。

この国では離島振興は土木工事でしか実現しないと信じられている。離島だけではない、建築会社と政治家が結託して税金を投入する構造は、日本各地で今も行われている。工事によって生まれた新しい問題を、さらに工事によって解決する。そうやって無限にお金がおりるのだという。しかし、そんな永久機関など一時の幻覚である。ネズミ講のような詐欺である。破壊と建設を繰り返しながら、国土を荒廃させていくだけの、三途の川の石積みは、結果としてむしろ経済を疲弊させ死への道行である。自分の世代さえ潤えばそれでいいのだろうか?

文化遺産を守るためには多大な税金が投入され、その守り人たちは誇りを持って、祖先から代々引き継がれてきた財産を次の世代に伝えようとしている。しかし、なぜか自然遺産に対しては、そうした仕組みが十分にできていない。


よく誤解されているが、こうした遺産を守ることは決して観光のためではない。文化遺産を守る目的が観光のためではないのと同様に、自然遺産を守る目的も観光のためではない。遺産の価値利用や経済化のために観光があるのではなく、観光は遺産を利用し利益化している寄生虫のようなもので、時には遺産の価値を矮小化してしまう必要悪でもある。だから私は観光に期待をしていない。

そうではなく人として生きるために、こうした豊かな自然が必要なのだ。海に抱かれながら、歴史や文化や人間の暮らしを感じること。時は厳しく時には優しい自然に圧倒され、自分がここにいる奇跡を感じながら、その恩恵をいただいて生きていく、自然遺産とはそういう資源なのだ。

2年前に嘉徳を訪ね、ぜひここでアダンサミットを行いたいと考えた時に、すでに工事の話は動き出していた。東日本震災のあとダムや道路に変わる新しい公共事業の口実である国土強化の名の下で認可基準が変わり、日本中の海岸への護岸工事が一気に進められていた。

新型コロナの流行の中、この海岸が壊されてしまう前に、アダンサミットを開催したいと考えていた。しかし、工事を差し止めるための活動やそれに対する嫌がらせ、複数の裁判の進展に、現地の人たちはまったく余裕がなく、なかなか開催の目処が立てられなかった。

本当であればもうすでに着工されていたかもしれない、しかし現地の人たちの根強い運動と、工事用の道が対岸の崖崩れで使えなくなるなどの、いくつかの奇跡が重なり、まだ浜は手付かずのまま残っている。


今が最後のチャンスかもしれないと思った。

たくさんの人にこの浜をみてもらい、この浜がここにあることの意味を感じてほしいと思った。護岸に賛成する人も行政も、ここで一度たちどまり、考えてほしいと思った。

かつて奄美大島では、自然の権利訴訟として有名なアマミノクロウサギ裁判があった、嘉徳村もごみ処理施設の建設を撤回させている。そうした取り組みの結果が、世界自然遺産への登録につながったことを思い出そう。クロウサギの次はアダンである。

しかし近年になり、ここにミサイル基地が作られ、護岸工事が具体化した。私はそこに、自然を壊し尽くし汲々と生きている都会の怨念を感じる。国や鹿児島県は、奄美大島の片隅に、自分たちが失った豊かな自然が残っていることを、許せないのではなかろうか。世界に誇る財産を持つこの村を、価値のないただの不便な僻地にしたいらしい。


今回のアダンサミットを通じて、ここに住む人に出会い、雄大な浜の自然に出会えた人は幸いである。もしかすると来年には、自然の営みはコンクリートに遮られ、何百年と続いたこの景観が、もうなくなっているかもしれないのだから。だから、参加出来た人は、参加出来なかった人のためにも、自分が見て感じた事を多くの人に伝えてほしい。これからもここが残っていくことを願いながら。


私たちは、海に抱かれ、嵐の激しさに怯え、満天の星を見ながら、焚き火にあたり、波の音を子守唄に、浜に眠った。きっと人はみな古来からこの同じ風景を見てきたはずだ。せっかくこんな美しい世界が、すぐ近くにあるのに、どうしてわざわざコンクリートの建物に泊まる必要があるだろうか。ここには人生のもっとも贅沢な時間がある。

ことに夜明けの美しさは格別である。どんなに暗い夜でも、その終わりには鮮やかな朝がやってくる。紫の雲、赤く染まる空。キラキラと光る水面。誰かに告げるでもなく、ひとつの言葉がぽろりと漏れた。「ありがとう」。

私たちは何も残さず、来た時のままの海に別れを告げ、静かに浜を立ち去ることにしよう。 6