こんにちは、メンバーのとめです。
今月の
16日に「おしゃべり憲法バー 学問の自由」を開催しました!
ご参加くださったみなさま、誠にありがとうございました。
予想を超えた盛り上がりを見せ、とても充実した時間を過ごしたと思います。
しかし実行にかまけて、写真をぜんぜん撮っておらず、ショックです。
参加した皆さまからの報告もおまちしております( ´ ▽ ` ;)
始まるまでかなり不安もあったのですが、学生さんも一般参加の方も、気さくな弁護士さんたちと大いにおしゃべりしていました。
こういう景色が増えていくことが、「学問の自由」を開催した理由なんだなあ、としみじみ思いました。
ここでは主催である朝隈朱絵弁護士に、代表して感謝申し上げたいと思います。サンキュー!
学問の自由を開催するにあたって、いろいろなことに悩みましたが、いろんな人に協力していただきました。
まず、学問の自由という題名がとてもよかったと思います。考えてくれたデザイナー・
DADAに感謝しております。
センスあるなあ。毒気を抜いて、遊び心、そしてポジティブ。
言いたいことはいろいろいろいろあるのですが、とりあえず、次に繋がりそうなことを書いておこうと思います。
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今回改めて考えたのは、弁護士とは頼れる法の専門家であるということだ。
弁護士さんたちは、当たり前だが普通の人間で、しかも今回大學堂に来たのは若手の方たち。こんなにたくさんの弁護士さんたちを一同に目にするのは久しぶりだけど、歳も近くて共感が持てる。独特の雰囲気が醸成されることさえも当然と思えるし、彼らは普通の人たちが集まった独特の職業集団なんだ、という実感を持つ。
「何で悪い人を弁護するのかって聞かれるけど、加害者っていうのは本当に普通の人」
「冤罪事件にはなかなか当たらない」
「でも私はあった、もうすこし私ができればなんとかなったのではないかと思った」
「自分はもう仕事としてやってるってだけですよ」
…。
盛り上げかたがうまい人や、スライド発表がまずい人、口ぶりから想起できる事務仕事のリアリティと個人の生活。憲法の知識だけでなく、そういうものを感じるのも、参加者たちの収穫だと思う。弁護士さんたちがひとりひとりの人間であるということを知った上で初めて、自分と変わらない目の前の等身大の人間が、膨大で集中的な学びを経て身につけた専門知識への尊敬、日々の実務への慮りが生まれる。
同時にわかるのは、弁護士はヒーローではないという当たり前のことである。
どこから駆けつけてくれたのだろうか、
1杯だけ頼んだおじいさんが質問をしてくれた。
長い質問だった。質問を要約すると、弁護士全体として、どういう社会貢献をして行くのか、何かやるつもりのことがあったら教えて欲しい、ということだった。加害者が虐待をされて心がボロボロになっているという実態、つまり社会構造に関わる犯罪など、そのような状況をどう打破して行くのか
…。話を聞いていて、おじいさん、犯罪についてよく興味持たれて、勉強されてるんだなあ、と思った。
でも私はあまり驚かなかった。大學堂をやってきてわかったことのひとつは、まちを歩く何気ない人々は、皆何かのテーマにとても詳しいということだ。誰もがそれぞれなんらかのテーマに興味を持った専門家であり、語るべきものを持っている。
おじいさんがこう質問したい理由はよくわかった。犯罪理由というのは複雑だ。弁護をして刑が決まれば満足というものではない。弁護士さんたちは、悪い人だって弁護をする、それが権利だし、保障だし、社会にとって必要なことだから。これは弁護士が社会で果たす役割のうち、最もスタンダードな貢献である。しかしながら、そもそもは彼らを生み出す社会に対して、包括的な対策や処方の必要性を感じている人は少なくないと思う。
これに対して弁護士さんたちからは、ダルクの取り組みが説明されたが、おじいさんが質問で強調したのは「弁護士全体」で取り組んでいること。
「弁護士さんたち、何かしないの?」という漠然とした、だけど切迫した質問であるように感じた。
おじいさんは多分、今の社会の閉鎖的・限界的な雰囲気を感じ取っていて、弁護士たちが「何か」やってくれるのではないか、と期待しているのだ。この期待は間違いでもなんでもない。学歴の高い人々は社会を動かす役職につく傾向があるし、同じ専門家として医者に社会変革を託すよりはずっと弁護士たちの方が希望がある。きっと男女平等も、より浸透しているはずだ。
つまり一般的には、「弁護士さんたちは、社会を何らかの方法でよくしてくれるはずだ」という期待がある。
一方で弁護士さんたちは、特に若手の彼らの実際は、毎日実務に追われる法の専門家だ。六法を紐解き、条文の細かい解釈を追いかけ、書類を作り、ある程度決まった弁論をする。もちろん個人差はあるし、志もある。だけど少なくとも、弁護士という資格を得るためにやってきた勉強は日本の法解釈学なのであり、社会構造や福祉、政治の勉強をしてきたわけではないのだ。
ある専門家ということは、別の分野では素人だということだ。
貧困問題や福祉制度、そして社会構造の知識がない弁護士さんだっていて当然だ。そして貧困、福祉、社会といった各テーマもまた専門化しており、そちらにはそちらの専門家たちがいる。
弁護士は法律の専門家ではあるが、法律を作る(立法)のは政治や官僚の仕事である。
しかしあのおじいさんの期待みたいなものは、決して的外れなわけではない。弁護士たちは社会システムの専門家でありながら、市井の当事者たちと密接に関わる数少ない業種なのだ。
ではあのおじいさんの質問に、どういう方向性で答えるのが良かったのだろうか。
急に
DVや貧困の問題を「おまかせ」されても、若手の弁護士さんたちは驚くだろう。それらをどうにかするための勉強をしてきたわけではないのだから。
だけど、犯罪加害者を生み出している社会についての知識や視座は、必ず弁護士業にとって有益なものだ。現に弁護士さんたちひとりひとりも、今の社会状況のままでいいと考えている人は少なかったが、どうしていいのかわからない、という状況のようである。
ここは、おじいさんの質問にある「弁護士全体」のことはよくわからない、と正直にいったうえで、あの弁護士さんたちひとりひとりが、社会のために何をするつもりかを語ってもらったらよかったかもしれない。人生ずっと学びである。司法試験は終わったのだから、次は実際の社会のテーマについて学んでいただければ幸いだ。
そういう知識の積み重ねによって、将来、福祉専門の弁護士になったり、政治家になった
りする弁護士が現れるかもしれない。そのための必要な専門知識を持つ人なら大學堂から紹介できるかもしれないし、知の交差点としてどんどん活用してもらってほしい。
道ゆく人々も、弁護士たちに「おまかせ」するのではなく、彼らの専門性を尊重しつつ、自分の専門知を提供する姿勢が大事だ。みんなのまちにいる将来有望な専門家に、大きな期待を寄せる人はたくさんいる。だから、その期待を実行に移して、知識を交換して贈与して、自分も学んじゃう。
つまり、まちの専門家を、まちの人々が育てるのである。
個人的な意見としては、ぜひ弁護士さんたちに人類学について知ってほしいな。私たちが従い、破っている法とは何か、それを作り出す人間とはどういう生き物なのかに疑問をもち、一緒に考えていきたいという弁護士さん、いませんか?
さて、学問の自由の第
2弾は、「まちに育てられちゃいたい!」という弁護士さんを集めて、まちの人たちがレクチャーしたり、お芝居したりする企画はどうだろう?学生さんたちも、弁護士さんたちに向けて自分の興味を披露することで、いろんなことを問い直す機会になる気がする。それが誰のために何が実現するのかわからないけど、きっと盛り上がるのではないかなあ。