2019年5月3日金曜日

デイ・ドリーム・ビリーバー

近頃、なんだか肩がかゆいと思っていたら、なんと小人が家を建てて住んでいるようである。しかもだいぶ前から住んでいる感じ。これは大問題である。なぜなら家賃を払っていないからである。私自身に家を建設するということは、私という土地を借りているということになる。これは天文学的数字を突き付けても文句は言えまい。
ようしそうと決まればさっそく弁護士と相談といきたいところではあるが、私はとある事情があって、この場所から離れられない。姿勢を変えることすら不可能であり、顔を動かすことだって不可能なのだ。私を生み出したのは小人らしいが、小人に文句を言っても聞こえないようだ。動けないから、しかたがないので、私の腹を使う小人たちの会話を盗み聞きすることしかすることがない。といっても、聞きたくなくても聞こえてしまうのだが。
小人たちの話によると、最近は4年ほど私の腹を踏み荒らしていった者たちが去っていったが、また新たに踏み散らしていく者たちがどっと入ってきたらしい。気が休まらない。しかし、毎年、嬉しいことに、この時期だけは私を踏んづける者たちはほとんどいない。嬉しい。嬉しいとはこんなに幸せな感情なのかと実感できるほど嬉しい。しかも、今年はいつもよりその期間が長いようだ。私の気持ちが輝く!実に黄金の週である。
問題は、肩である。肩だけは、ずうっと何かが居座っている感じがしていたが、まさか家を建てているとは思わなんだ。小人のなかでも、この家の話をする者はごくわずかであることも分かった。彼らは私の左手の甲を利用している。右手の甲を利用している者たちもいるが、こやつらは勝手に右手の甲を24時間使えるなどとのたまっている。そのかわり、右手の甲の安全はこやつらに守ってもらっている。イソギンチャクとクマノミのようである。
話を戻す。この左手の甲の者たちが私の肩に家を建てた事は確定している。これで本当に住んでいたら大問題だ。電気代、ガス代、水道代、家賃、駐車場代、その他もろもろエトセトラ。全て込みで天文学的いや太陽系外縁天体的いや異次元並行世界1Q84光車よ回れ女神異聞録ペルソナ的数字を奴らの額に叩きつけてやらねば。
と、思っていたのだが。どうやら彼らはその家には住んでおらず、住んでいるのは、どうやら、「ハチ」という、ちっこい虫であるそうだ。家というより、箱。巣箱である。彼らは定期的にこの巣箱とやらの様子を確認しにきているらしい。
今日、この暑い日に肩にやってきたのは3人の小人だ。「こっちは勢いがある」とか、「基本刺さない」とか、そのハチのことについて話している。「水が出ない」とか。これはハチのことではないな。
彼らは普段、肩までやってきたら帰るのだが、今日は違う。「もうちょっと上まであがれる」と言って、私の首、あごの先までやってきた。くすぐったい。ゾゾゾっと鳥肌がたちそうだ。「あの向こうの山の黄色いのをハチは好む」と1人が言った。向こう?ああ、あれね。ハチは花の蜜より木の蜜を好むらしい。ということは私が肩につけているツツジのネックレスよりもハチは木を好むということだ。やはり私のセンスは虫には理解できないか・・・・
ツツジの美しさにボーッとしていたら、私と同じように地面に磔にされ、顔すら動かせない者たちを見た。私は彼らより体が大きく、顔の構造も特殊なので、彼らを見ることができる。しかし、彼らは気が遠くなるような青い空を見る事しかできない。彼らも体を小人たちのいいように使われている。若手もいれば、かなりお年を召された方も存在する。あまりに長生きをすると、小人たちからも一目おかれ、小人の世界から「指定」される。指定されたものは、指定されないものたちと比べると目立つ。健康も少しは維持される。ただ長生きすればよいというわけでもないようだ。「レキシテキ」に重要であったり、その者の体の中で、何か小人たちにとって大きな出来事が起こったりすることが必要らしい。なぜ私たちの価値が小人たちに決められなければならんのだ。少々疑問である。レキシテキとはなんだ。
私たちの中には、健康を維持するためにあの手この手で体を小人たちに使わせている者もいる。小人たちは「りふぉーむ」「カイチク」「ゾーチク」とか言っているが、我々からすれば「整形手術」である。「ばりあふりー」といって我々の体の中にできる段をできるだけ減らすこともあるそうだ。「ワヨウセッチュウ」というハーフの存在もある。皆、工夫を凝らしている。奥の方を見やると、すでに何人か同胞が死に、葬式が行われている。小人たちが機械に乗って、せっせとその遺体を細かくして、体の破片をどこかに運んでいる。葬式があるだけマシである。中には、死後、小人たちから見放され、ただ、雨や風が体を崩してくれるのを永遠に待ち続ける者もいるのだから。
ハチたちの巣箱も、我々と似たようなものである。小人たちの手によって生み出され、最期は小人たちの手によって葬られる。私たちの存在が場所になる。では、私たちが全く存在しなかったら、彼らはどうするのだろう。彼らに私たちを生み出す技術がなかったら、どういう生活をおくるのだろう。「家」がない世界。ちょっとおもしろそうである。

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