3月15日~24日頃、北九州を離れて京都、大阪、岐阜、東京へ行った。
北九州の家を出たときには東京に行こうなんて全く思ってなかったし、思ったより長旅になった。
16日は、大介たちが学会に行っている間単独行動。京都dddギャラリーで企画展「もじのうみ: 水のような、空気のような活字」をみた。ヒラギノフォントや游明朝などの書体を設計した鳥海修さんの「仕事」の展示だった。
フォントのオタクだった人間にはたまらない空間。
慣れない土地で時間を潰すのって案外難しい。
映画観たいな、と思って調べると、京都シネマで「テレビで会えない芸人」を観られることに気づく。気になってた映画だ。
ねずみ男やガーデンズシネマ(私の地元鹿児島の映画館)がSNSでプッシュしていた記憶がある。
上映前に軽く調べていると、鹿児島の放送局が制作したドキュメンタリーであることを知る。あ、だから鹿児島の映画館がプッシュしていたのか。
こんな調子でなんとなく観たけどすごく良かった。
かつて政治や社会問題のネタでテレビに出演し活躍していた鹿児島出身の芸人、松元ヒロさん。
徐々にスポンサーから政治家の名前を出さないようになどと注文をつけられるようになり、活躍の場を舞台に移していった。今、彼の姿をテレビで見ることはない。
こうした状況に危機感を募らせた鹿児島テレビの四元良隆さん、牧祐樹さんが監督を務め、テレビ番組として制作されたのち、映画版ができたという。
「私から語る世界のこと」講演会の頃に考えていたことを思い出す内容だった。
3月21日。
私の今回の旅のメインのひとつは、みんぱく映画会「ヒップホップから見た現代モンゴル社会―映画『モンゴリアン・ブリング』から考える」へ行くことだった。
特別展「邂逅する写真たち──モンゴルの100年前と今」の会場に人類学者の島村一平さんがいた。私は口下手なのでかなり逡巡したが、話しかけた。
島村さんは優しく朗らかに話してくださった。名刺をいただいた。
先生は誰かと尋ねられたので竹川大介だというと、すぐにああ!と反応が返ってきた
「ご存知ですか?この前もここに来てたと思うんですが……」
「昔、頼まれてモンゴルで学生さんを案内したことがありますよ。10年くらい前だけど……」
「上にヒップホップのコーナーがありますよ」と言われて2階に行ってみると、ちょっと薄暗いクラブ風の空間でなんとモンゴルヒップホップのMVが流れていた。みんぱくで……!胸熱の光景。
映画「モンゴリアン・ブリング」は、島村さんの著書「ヒップホップ・モンゴリア」が出た頃にその存在を知り、観てみたいと思っていたが、公開が10年ほど前の作品であり、ネットで観ることもできない(はず。多分。)から貴重な機会だし楽しみだった。
映画で印象的だったことが2つ。
まず、映画の中で出てくるモンゴル語ラップのリリック(歌詞)の多くがポリティカルで、しかもそれが政治家への直接的なメッセージになっていること。
ラップが政治的なテーマに言及するのは珍しいことではない。アメリカでも日本でもそうだし。
(日本のポリティカルラップについてはこの記事がとても詳しい。https://bobdeema.hatenablog.com/entry/2018/12/10/012817流し読みでもすれば、とりあえずどんな曲があるのか分かるかと思う)
でも、私の知っているポリティカルな日本語ラップの多くが「自分から見た世界の描写」や「自己言及」「大衆への呼びかけ」であるのに対して、モンゴルでは「政治家への呼びかけ」が主流らしいのだ。
国のお偉いさんたち
あんたたちは、自分の親族やお仲間たちだけに
徳を施すのはやっちゃいけないことでしょうが。
法律って誰に有効なもんなんっすか。
貧しい国民を抹殺するためにつくった命令ですか。
これは映画に出てきたリリックじゃないけど、こんな調子で政治家へのメッセージを織り込んでいることが多い。(少なくとも、映画ではそうだった)
この、政治家や権力者への近しさは何なんだろう。国の規模なのか、民主主義への考え方の反映なのか……
もう1つの印象的なポイントは、ラッパーたちが「(ラップでは)自分の意見を言える」と強調していたことだ。
ラップの「一人称」性は日本語ラップ批評でよく指摘されることであり、私が日本語ラップを好きな理由の一つだが、それはモンゴル語でも変わらないのだと知る。
「一人称」のラップがリスナーとの距離感を縮める(縮まったように感じさせる)ことが、上記のような政治家との「近しさ」をも可能にしていることにも気づく。
一人称の重要性はねずみ男(森田達也氏)がよく指摘していることだが、ドキュメンタリーとラップ/ヒップホップはすごく相性が良いと思う。
「テレビで会えない芸人」で問題提起されているような状況を打破する力を持っているのは、ラップ/ヒップホップやドキュメンタリーなのではと本気で思う。
松元ヒロさんのスタンダップコメディもまた、「一人称」の「語り芸」であるという点でラップと類縁性があるということも指摘したい。目の前にいる人(スクリーンの向こうにいる人、でもいい)の一人称の語りは、聞き手に強烈な当事者意識を持たせる。この当事者意識こそが社会を動かし得るのではないだろうか。
アジア×ヒップホップという観点?で観てみたい映画としては他に空族の「サウダーヂ」もある。
映画の上映後のトークイベントもすごく良かった。
ラッパーのHUNGERを初めて見る場所がみんぱくになるなんて……
HUNGERは、映画にも登場したモンゴルのラッパーQUIZAと共に曲を制作しているのだが、その経緯が面白かった。
2006,7年頃に彼がモンゴルへ旅行に行った際、地球の歩き方に「モンゴルではヒップホップが流行っている」と書かれていたらしい。
驚いた彼はQUIZAらが出演するライブの会場へ行った。モンゴル人の友人に、QUIZAに会いたいと言うと「人気者だから無理だよ」と言われたが、HUNGERは「ラッパーなら、日本人のラッパーが会いたいと言っていると伝えれば会ってくれるはずだ」と譲らず交渉した。するとQUIZAは本当に会ってくれた。開口一番「日本にもヒップホップあるの!?」と言ったとか。
HUNGERの「フィールドワーク力」がすごいし、ラッパーの「会ってくれる」感じってモンゴルでも変わらないんだなあと思う。
3月23日。
最後の目的地、東京。目的はヒップホップ系のライブに行くこと。
京都滞在中に開催が発表されたイベントにどうしても行きたくなった。
北九州にいるときなら、流石に東京だし……と諦めていたと思う。でも、京都からならまあ……と思った。いけるんじゃね?と。
別に京都と東京が近くはないのは分かっている。でも、北九州にいるときよりは近い。
それに、どうしても見たい出演者が複数いた。この機会を逃したら絶対に後悔すると思ったし、行って後悔することは無いだろうと思えたので行くことにした。
ヒップホップは"現場"、ライブなどの会場へ出向くことを重視する文化だ。
ラッパーが打ち出す「リアルさ」を消費するだけでなく、実際に会って話をして、彼らの素を垣間見ることで自分自身の「リアル」な経験へと接続することが大事だと私は思う。
ライブ会場はフィールドだ。いくらSNSや音源からラッパーの「リアル」を感じようが、それが現実の体験と接続しない限り、それは自分のイマジナリーラッパーでしかない。だから、本気で好きなラッパーのライブは最低1度は必ず行きたい。(これは無茶な状況でライブへ行くことへの言い訳だ)
("現場"云々と言うならイアン・コンドリーの文献を読むべきと分かっているのに、入手が困難で読めていない。あとヒップホップの文脈で使われる「リアル」という言葉については解説が必要だろうけどここでは割愛。)
そんなわけで行った幡ヶ谷。想像以上に良かった。後悔どころか行った自分を褒めたい。
ライブ後、好きなラッパー(複数)に話しかけた。
「(しばらく京都に滞在してたけど)家が北九州です、今日はあなたたちのライブを見るために来ました」みたいなことを伝えた。
でかい音が鳴っていて会話には不向きな状況だったし、私は会話が下手なのでその場はそのくらいでホニャ〜と終わった。
私としてはそれで十分満足だった。良いライブだったし、好きなラッパーたちと同じ空間にいられたし、自分の伝えたいことは言えた。
幸せな気持ちでホテルに帰り、スマホをいじっていると、目を疑うような通知が立て続けに来た。
私のSNSの投稿に、演者の2人がリプライしてくれた。私のアカウントが好きなラッパーからフォローバックされた。イマジナリーだったものが現実に接続した!
0 件のコメント:
コメントを投稿