【4月30日】
魚は天を仰いでいた。かつて人々を魅了したその鱗は、ある日を境に宙を舞いはじめた。こちらが手を繋いでおかなければ外を歩けなかった幼子が、何の前触れもなくひとりでずんずんと歩きはじめるように、鱗はひとりでに魚から離れていった。かわいらしく、生命にあふれていた鱗の代わりに、青い鱗がとげとげしく生えてきた。人々は手のひらを返し、そこに美しい魚がいたことなどとうに忘れてしまった。
しかし鱗は弱かった。主の装飾品という身分から解放されたものの、行く当てはなく、風に乗ることもできず、主のもとへ戻ることもできなかった。地に向かって落ちるのみであった。身動きが取れない鱗は、こう考えることにした。「皆が青空へ手を伸ばし、宇宙の果てを目指すのならば、せめて自分だけは泥の冷たさを噛みしめよう。」鱗は泥とともに雨や埃にまみれ、ときに異臭を放ち、虫たちに食い破られた。
かつて鱗だったそれは、はじめこそ孤独であったが、もう一枚、さらにもう一枚と堕落した仲間たちが増えていった。人々が忌み嫌う暗い地面には、泥と一体となった彼らによってまだら模様の世界が広がっていた。
…葉桜の下で空想しながら、庭や店のまわりの掃除からこの日は始まった。数か月に一度の岩田酒店のガレージセールだ。今回は前回よりも岩田さんの気合が入っているようで、昨日はガラス製品の清拭をふたりでおこない、ディスプレイ用の台も一新した。軽く朝食をとり、岩田さんの友人である公事さんと松田さんとともに商品を表に運び、11時を迎えた。
人が全然やってこない。前回はスタートと同時に5~6人は来ていたが、今回は人が来る気配すらない。もうゴールデンウィークが始まった人が来ることを期待していたが、レトロ地区や栄町銀天街の人通りも普段と変わらない様子だった。今回は売れないかな、と早々にやる気がしぼみかけていると、ぽつりぽつりと、ようやく人がやってきた。もう時計の針の逢瀬が迫っていた。
「あまり店の中に人は入れたくないんだけどね」
ガレージセールを開くとき、岩田さんは必ず言う。人が店の中を行き来して、収拾がつかなくなるのを恐れているのだろうか。表に出さない、売り物ではないものを盗まれる可能性もある。商品や店そのものに全く興味がない人に、休憩所のように使われるのもイヤなのだろう。その気持ちは私もよく感じる。座るなら何か買ってほしいし、グラスが空になれば新しい飲み物を注文してほしい。買う気がないならせめて楽しい話や前向きになれるような話、興味深い話をしてほしい。ほしいほしいと求め過ぎているかもしれないが、ここも大學堂も場末の居酒屋ではないのだ。
いろいろ思っていたが、店に入るハードルはさほど高くはなかった。見ていると、確実に何か買うだろうという人だけ店の中に案内され、涼しい空間で商品をじっくりと吟味していた。
「これはいくらですか?」「んー、1000円。いや2つで1000円ですね」
「これは?」「それは1つ2000円」
「ここのお皿は?」「あっごめんなさい。これは売り物じゃないです」
お客さんと岩田さんの掛け合いを聞きながら、私は皿やグラスを布で拭いていた。
岩田さんたちが蔵で昼食をとると言うので、店番をすることになった。相変わらず大型トラックとバイクばかり通る国道2号線を尻目に、私は乱雑に置かれた商品を並べ直していた。ここからは、午後からやってきた3人のお客さんについて話そう。
【1人目】
「お兄さん、いつも庭の掃除をされている方ですよね?」
「ああ、はい。へへ。見られてるもんですね~~~」
「お店の中を見せてもらえませんか?」
中に入れてよいのか少し迷っていると、女性のパートナーらしき人物がやってきた。女性とパートナーは英語で会話し、パートナーは片手に動物用のケージを抱えていた。ペットを病院に預けているのだろうか。ふたりの組み合わせがちょっと面白かったので、案内した。案内を聞きながら、屋号の入った酒瓶を前にして、英語でなにやら話していた。皿や木箱などを買っていった。
ふたりが帰る頃には、岩田さんたちは休憩を終えていた。やけに楽しそうな声が聞こえる方を向くと、公事さんたちがひとりの女性と話をしていた。
【2人目】
その女性は長門からやってきたという。立派なカメラを抱えたその女性は、以前まで東京で仕事をしていたが、いまは実家でテレワークをしている。以前、店の前を通りがかったときにガレージセールのポスターを目にし、車で1時間ほどかけてガレージセールのためだけに門司港にやってきたというから驚きだ。
「台風が無ければ、ここのレンガはもっともっと高かったんですけどね」
「ここに建ってから、今年でちょうど100年です」
という私の説明を聞きながら、女性は何枚もシャッターを切っていた。
「掘り出し物をがんばって見つけます!」
そう意気込むと、女性は商品の入った箱全てに目を通しながら、切子のグラスや備前焼を手に取り、眺めていた。結局は切子も備前焼も買わなかったが、漆塗りの餅箱と門司ヶ関人形を買った。
「近くでご飯を食べられる場所ってありますか?」
「このまままっすぐ行くと交差点があるので、そこを右に曲がったところに大衆中華があります。駐車場もあります」
右手にカメラを、左手に木箱を抱えて歩いていく女性を見送った頃、私たちの後ろの交差点を別の女性が歩いていた。
【3人目】
日陰がレンガを冷やし始めたころ、店の扉の前に一人の小柄な女性が立っていた。岩田さんが扉を開けると、女性は少し緊張した面持ちで口を開いた。
「私、長野と申します。旧姓は高岸といいます。かなり昔に、私の祖父がここで丁稚奉公していました」
「そうなんですか!高岸さん…うーん、僕はわからないなあ」
「土曜日の酒蔵コンサートのことは以前から知っていたんですけど、なかなか来れなくて。今日お店が開くと知って、ようやく来ることができました」
「そうですか。どうぞ、中へ」
「ありがとうございます」
長野さんは店の中に一歩足を踏み入れると、深呼吸をして呟いた。
「ここで働いていたんですね」
「皆が寝泊まりをしていたのは2階です。毎日、仕事のはじまりはお手伝いさんたちが店の大黒柱を磨くことでした。こちらに、当時2階に通じていた階段がまだ残ってます」
そう言うと、岩田さんは酒蔵の入り口まで案内した。
「いまは塞がってますけど。ここを登ればお手伝いさんたちの部屋でした」
階段を見つめる長野さんの目からは、涙がこぼれていた。
「祖父はここを上り下りしていたんですね…祖父は、ここで一緒に働いていた人と結婚したんです」
「え!」
思わず、声が出てしまった。
「結婚して、のれん分けまでしてもらったんです」
「ええ!じゃあ、別の場所で酒屋を開いていたんですか?」
岩田さんも驚いている。
「はい。庄司町のほうの、今の持ち主はもう誰か分からないんですけど…」
長野さんは、写真を見せてくれた。
「あ!ここは!」
三階建てで、半地下の倉庫が隣接した建物が写っていた。屋上から煙突らしきものが伸びている(伝わるだろうか?ときおり皆で門司港を散策するとき、いつも前を通りがかる建物なんだけれど)。建物の入り口に通じる階段に、一人の男性が座っている。
「写っているのは私の父です。今は足を悪くしてしまいましたが…」
「ここ知ってます。家の中に傘とかぶら下がったままのところですよね」
「今はそうなっているんですか?家主の所在が分からないままずっと残っているそうなので、そのまま残っているんでしょうね」
長野さんはしばらく目頭をつまみ、うつむいていた。
岩田さんは、他のお客さんに対応しながら高岸さんとの会話を続けた。
「真面目な人だったんでしょうね。15、6で奉公に来て、ずっと働いている高岸さんを、僕のおじいさんが信用して。じゃないとのれん分けはせんですよ」
「ありがたい話です。今日は来て良かったです。祖父の足跡をたどることができました」
「和室に昔の写真が残ってます。良かったら見てってください」
「そうなんですか!ぜひ見せてください」
岩田さんは長野さんを和室に案内し、タンスの中から袋をひとつ取り出した。袋の中には三枚の大きいモノクロ写真が入っている。
「これが、祖父が働いていた頃のお店ですか」
「昭和の始め頃ですから、そうでしょうね」
関門トンネルが開通し、道路の拡張工事が行われる前の写真だ。店の看板の前に大八車が鎮座している。長野さんはまた、涙を流して「お世話になりました」と仏壇に手を合わせていた。
「またお店が開くときは、来ていいですか?」
「どうぞどうぞ。次のガレージセールは、秋ぐらいかな」
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