2023年2月12日日曜日

遠賀川を越えて

 

芦屋と聞くと『大富豪の街』しか知らなかった。北九州に来てから、それは兵庫の六麓荘町のほうだとわかった。

芦屋歴史の里・歴史民俗資料館特別展「玉井家・吉井家・杉山家~人の望みと喜びと~」を見るために、タワシと小籠包に車を運転してもらった。1時間寝坊という大ポカをやらかしてしまったが。

資料館の前に、「とと市場」で昼食をとった。どうやら福岡市・日田市・八幡の文化圏では、ヅケ丼は混ぜずに食べるらしい。冷や汁文化圏の人間は迷いなくかき混ぜる。


資料館の1階は常設展で、縄文から明治の芦屋について展示されていた。

明治期の芦屋には、門司と同じように商家や料亭が立ち並んでいた。そして、江戸末期から「築州御前座」という福岡藩でもっとも大きな芸能集団がいたようだ。遠賀川流域のみならず、他藩に赴いて興行していた彼らだったが、興行の独占はなかなかに難しかった。芦屋にやってくる他の劇団を排斥する請願を藩に提出することもあった。明治時代になると、劇団の競争はより一層激しくなり、築州御前座は解散した。散り散りになった劇団員たちは、それぞれの居場所を求めた。他所の劇団に加わりアメリカや上海で興行をおこなった者や、川ひらたの船頭となった者、八幡製鉄に入社した者……鳥の鳴かぬ日はあっても、三味線の鳴かぬ日はないと謳われた、かつての芦屋であった。



飯塚屋呉服店

醤油醸造元・かね正



山香屋旅館


料亭・梅月楼


企画展は2階で開かれていた。三つの家の歴史と日本史を並列した年表があったが、字が小さく、手前にガラスケースで囲われた書籍や手記が配置されていたため、近寄ることが難しく、目を凝らさねばならなかった。もっとも興味をひかれたのは、玉井政雄の「刀と聖書」という本。吉田磯吉と敬太郎の二代の物語だ。さっそくネットの古本屋で購入した。読むのが楽しみ。



楽しみだけれど、こういうものを読むときは注意していることがある。それは、「素晴らしい一族だ」というふうに描かれていた場合、「そんなことはなかろう」と考えるようにしていることだ。その家に「生まれたこと」が素晴らしい理由のように書かれていれば、捨てる。自分が卒論を書いたときも、これだけは避けたかったが、どうだろうか。読んだ人の評価に委ねる。

血統だの遺伝子だの、無味乾燥なデータを引っ張り出して訳知り顔でヒトについて話す者は嫌いである。「家族が生きがい」といった類の話も聞くに堪えない。極力、家族とは距離を置いたほうがよい。

たとえ血筋や生まれた場所に影響される部分があったとしても、それで個人の人格や道徳、生き方を評価し、ときにまつり上げることは殺人に匹敵するほどの人権侵害だ。だいいち、血統なんかを持ちだしたら、理想も希望も夢もない。冷酷に「運命」づけられ、あとは死ぬのを指折り待つだけだ。

 

資料館を後にし、芦屋海岸を訪れた。立春を迎えたとはいえ、まだまだ寒い。



旅人は絵を描く





浮きはボールにするには重い



子犬に大興奮


子犬に大興奮2


子犬に大興奮3

子犬の翔太くん
これから食べ盛りの時期を迎える。
「運動させないけんからね」とおっちゃん



帰りの車内。太ももの下に手を滑り込ませ、温めた。最後に、小籠包が昔住んでいた場所を見にいった。


ここでテニスをして遊んでいた

 

奥田家跡地の近くに車を停めてあたりを見回すと、ひとつの発見があった。

ほんの数十歩足を進めたさきに、古い家が残っていたのだ。「吉田」という表札が掲げられたこの家は、かつて材木店であった。なぜ知っているのかというと、歴史資料館に明治頃の写真が展示されていたからだ。しかも、この吉田材木店は現在でも当時の風景が残る唯一の建物であるらしい。現在、営業はしていないようだが、裏に回ってみると人が住んでいる様子がうかがえた。



かつての吉田材木店


現在の吉田材木店



隣の蔵。今は倉庫だろうか?

さらに、グーグルマップで町を検索すると、吉田材木店の隣の家は「吉田呉服店」と表示される。まだ築が浅い家のようだったが、何か関係があるのだろうか?疑問が残った。



吉田材木店の裏。左手の真新しい家が吉田呉服店と表示される。


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