2023年3月2日木曜日

とある次男の話

 


セツブンソウが揺れていた

男は泣いていた。大粒の涙を流して男泣きに泣いていた。昼休みが終わり、会社の駐車場から同僚たちが次々と社用車を走らせる中、その男だけはエンジンをかけたまま、しばらくのあいだ泣くばかりであった。スラックスがまだら模様に染まることを気にも留めず、ハンドルを握りしめる両の手のひらには思わず爪が食い込んだ。両腕は動くことを一切知らなかった。

 

……象さんのおなかを開けてみると、大きな胃袋には水一滴入っていませんでした。象が死んだ!象が死んだ!人々は死体にかけより、そうして口々に叫びました。戦争はいけない。二度と戦争をしてはいけない。

 

カーラジオから聞こえる朗読劇が、男の琴線に触れた。疎開の経験がある男は、幼い頃の様子を不意に思い出していた。しかし奇妙なことに、この涙は戦争体験をそのまま表出したものではなかった。これはなんだ。男は涙をとめる術を知らないまま、いやに冷静な頭でこの塩辛い味について思案した。

 

……檻にすがって食べ物を下さい、飲むものを下さい、と訴えるように、万才の芸当をしたまま死んでいった象。

 

男は思い出した。それは、「世界大百科事典」の絶版が正式に決定した、二年前の深い悲しみだった。

 

男の仕事は、百科事典のセールスであった。名実ともに世界一と信じ、テレビの普及に追いつき、そして追い越そうと、創業者・下中弥三郎の「ものまなぶ もろびとのため のちのよに」の言葉を胸に、販売に励んでいたのだ。今でこそ男はこの仕事に復帰しているが、あの無慈悲な宣告を耳にしたとき、光も届かぬ沼の底に男の心は沈んでいた。

 

『無謀とも思えることを真剣に本気になって考え、我武者羅に動き、惚れこんでいた絶対物が消えてなくなる。打ち込むものがない、信じ愛するものがない、その悲しさ、淋しさ、傲慢に見えるぐらい暢気だったそれまでの私は、一転して夢遊病者のように魂の抜けた男になってしまった』

 

男が残した言葉である。このまま百科事典は廃れるだけか。男は諦めと奮起のはざまにいた。

 

『どんなに良い本でも多くの人に一冊でも多く使って貰わなければ折角の良い本も餓死してしまうのだ』

 

奮起が勝利した。友人らの助けを借りて職場に舞い戻った男は、より一層、仕事に心血を注いだ。

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男はある日、居間でおやつを食べる娘の姿を見た。娘が大事に食べているそのお菓子は、一箱に八粒入っている、小さなものだった。

「ミエコ、そいつの値段はいくらだ」

10円だよ」

八粒10円であれば、ひとつぶ1円と25銭。男はこの考え方を仕事に取り入れた。

 

「こんなに素晴らしい専門家の解説が僅かの58銭なんです。このアメリカという70ページにもわたる大項目で、写真入りの素敵な説明費がたったの58銭ですよ」

 

男によれば、この百科事典の刊行には72000万円の費用が投じられていた。これは当時もっとも近代的といわれた新幹線・ひかり号の十車両分の値段に相当するという。グリコを例にしてピンとこない相手にはひかりの名前を出し、百科事典の価値を宣伝していた。

 

「そうはいってもねえ、おにいさん。もう時代はモノクロじゃないよ。テレビだって映画だって総天然色。フルカラーの世界が飛び込んでくるものじゃなきゃ。あなたのいう、森羅万象を散歩する楽しさというのも、イマイチ伝わらんのじゃないかな」

 

そう言って、フルカラーの商品を望む者が増えていた。そういう相手には百科事典ではなく、百科事典の補遺として位置付けていた月刊誌「太陽」の購読を勧めた。

 

『セールスの世界は非常である。単なる一時的な好・不調の数字だけに陶酔したりまた溺死してはいけない。私はこの仕事を天職と思い、一歩一歩進んで行こうと思う。』

 

男は毎月、浅草寺への朝参りを欠かさなかった。そのたびに、鉦をたたく坊主やおみくじ売り場の坊主など、寺の人間ひとりひとりを相手に「読んでいますか」と語りかけていた。もちろん、百科事典を読んでいるかどうかの確認である。それほど男は自分の仕事に情熱をぶつけていたのだった。

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男は現在、篠崎の住宅街の一室で、小さな箱の住人となって眠っている。目を覚ますことは永遠にない。私はたった一度だけ彼と出会った。緊張して、私は口を開くことができなかった。彼もまた、口を開くことは無かった。ちぐはぐな喪服を着た私は、遺族とともに彼の棺を運び、クラクションも無しに火葬場へと走る霊柩車を見送った。

 

遺族から話を聞くと、彼の両親は門司で小さな酒屋を営んでいた。高岸酒店という看板を掲げ、薪や炭も扱っていた。両親はいちから店を開いたわけではなく、もともとは堀川沿いの大きな酒屋の丁稚からはじめ、のれん分けという形で開業したが、第二次世界大戦の影響でやむをえず店を畳んだ。

戦後しばらくのあいだは疎開先の山口で暮らしていたが、上京する息子にあわせ、両親も東京で暮らすこととなった。父は酒、息子は百科事典と、全く異なる商品を扱っているところがおもしろい。

高岸家は最終的に北九州に舞い戻り、現在に至る。彼が余生を送った場所は八幡や戸畑であった。門司は子孫が生まれる度に足を運ぶ特別な場所であった。子供たちの名前をつけてもらうために、甲宗八幡時神社を訪れていた。

私は彼の長女・ミエコさんの自宅に赴き、彼の写真を見せてもらった。


「いかにもサラリーマン、て感じでしょ」

生きているうちに、一度会って話が聞きたかった。

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