2017年の芸術祭の際に、四代目宝湯当主の橋元宗太郎さんを私たちの五右衛門風呂作品に招待し、いつかこれを宝湯で実現しようと約束した。
2024年の元旦に宝湯の本館は倒壊し、2025年、瓦礫が撤去された更地にこんこんと温泉が湧き出し、そこに五右衛門風呂の露天風呂を置いた。そのとき生まれた「エナジー風呂」のイメージをもとに、タブラ奏者のU-zhaanに出演の依頼をしたところ、1年後の2026年にチャリティフェスが実現できる可能性が出てきた。
それから1年かけて能登と連絡を取りながら、この企画を進めてきた。宗太郎さんは精神的にも身体的にも、そしてなにより経済的にとても苦しい中で、やりとりが途切れがちになりがならも実現にむけて前向きに協力してくれた。
しかしこの企画には、できるだけ現地の人に負担をかけたくなかった。自分たちでできる範囲でするしかないと覚悟はしていた。とくに宝湯のお湯を提供してくれる宗太郎さんには、これ以上の負荷はかけられないと考えていた。
1年間かけて事業予算として震災復興のためのさまざまな助成を当たったが、あてにしていた助成資金はことごとく落ちてしまった。助成を受けながらチャリティをするときに、チャリティ収入よりも助成金額の方が大きくなるのは矛盾しているという指摘もされた。今考えると、おもいきって無料イベントした方が良かったのかもしれないが、それでは助成の条件である自己資金のめどがたたなかった。
結果的にようやく取れたのが、北九州市立大学の同窓会から受けた学生たちの活動のための助成金だけだった。別の団体とのタイアップも企画そのものの持ち込みも断られ、最終的には野研からの持ち出しと、交通費を時期を前後する別の事業から捻出することで費用をカバーした。それでも観客数次第では赤字前提は変わらなかったが、そもそもの目的が能登の復興支援とチャリティが目的であるので、これも私たちからの寄付と考えることにした。
そうして、かならずしも順調とはいえないまでも、2026年の5月までは9月のイベント開催をゴールに準備を進めてきた。この時点であとは、イベントの詳細をつめて会場の確定し、機材の調達、スタッフの確保、そして告知をしていくだけになっていた。
しかし、7月になってどうしても鎮座DOPENESS、環ROY、そしてU-zhaan の3人のスケジュールが合わなくなり、何度も調整をしたのだけれど今年の出演が難しくなってしまった。運営資金の不足分を、イベント参加費から補うおうという目算も同時に崩れてしまった。
まだ告知を始めていなかったので、規模を縮小し、前年度と同様に身内のためだけのイベントにすることも考えた。急遽、予定していた告知を止めた。別の可能性もいろいろ考えたけれど、宗太郎さんも楽しみにしているイベントそのものを中止するつもりはなかった。しかし、どのようなやり方をするにせよ、準備期間はほとんどなかった。
同窓会からの学生活動の助成は取れていたので、いったんすべてを白紙に戻して、学生たちが主体の企画に変更した。もともと同窓会からの学生活動の助成金は3人分の旅費の予算にあてていた。出演者に使える費用はここしかない。低予算でできるように、短期間で準備をし直した。
この条件では、能登の被災地に対する強い思いと心意気だけで来てくれる人でなければ、難しいだろうと思った。これまで野研や大學堂でおせわにになり、以前の奥能登芸術祭でのライブに駆けつけてくれた何人かアーティストに声をかけた。
準備してきたの企画の再現というよりは、来てくれる出演者に合わせて、すべてを作り直すことにした。どうしたら被災地の外から人を呼べるのか、どうしたら今の現地の状況を参加した人に感じてもらえるのか、イベントの意義を伝えることから、もういちど検討をはじめた。
こうして大地に寝転がりゆるゆると夜を過ごす「エナジー風呂」は、華やかな祭りから静かな鎮魂へと続く「地鎮(とこしずめ)と産霊(むすび)の祭礼(まつり)」となった。
出演者のめどが立ち、日程の調整もなんとかできた。こんな厳しい条件とスケジュールの中で、引き受けられる人も多くはないだろうと予想していたが、思っていたよりも多くの人が賛同してくれた。とてもうれしかった。
けれど、その結果、その人たちの旅費だけでも予算が足りないのは明らかだった。しかもチャリティの趣旨からも、できるだけ開催収益は被災地に回したい。全体の経費を減らすために私たちの作業のための滞在は宿泊はテントを使い、乗り合いで移動し交通費も可能な限り押さえる方針に決めた。野研の卒業生たちや大学同窓会の北陸支部も活動のサポートを申し出てくれた。
そんな中、8月6日からは京都でのリノベや、そのあと沖縄と大阪と名古屋での学会発表やフィールドワークの予定が立て続けに入っていた。
京都にいる10日間のうちに出演者にはプログラムとスケジュールの確認をしてもらい、小倉にもどると1日でホームページと本チラシを仕上げた。翌日からの沖縄と名古屋の予定がはじまると私はまた動けなくなる。最終的な会場が決まらないまま、チラシを入稿するしかなかった。まさに綱渡りでぎりぎりのスケジュールだった。
入稿を終えると沖縄に旅立った。私や野研の沖縄部隊が不在の間は、小倉にいるメンバーが出演者とのやりとりや、チラシの郵送、機材の調達準備を進めることにした。現地とやりとりしながらも、最終的な開催会場が決まらないまま、能登行きの日を向かえることになった。
そうして9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み、小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかかった。未確定の要因もさまざま残っていた。
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