9月15日の朝、レンタカーに必要な荷物を前日に積み込み小倉を出たメンバーと、名古屋から移動した私は米原で合流した。これから9月21日までに、自分たちの作品を作りあげ、イベントを実施することになる。実質作業できるのはわずか5日間しかなかった。しかも制作の作業ができるメンバーは、私を含め5名だけ。そのうち3名はほぼ初心者だった。開催に当たって未確定の要因もまだ残っていた。
テントは宿泊用のドームもふくめて、出演者とお客さん用の3張を持ってきたが、結局、宝湯がある鵜飼の作業現場から車で30分ほど離れた上黒丸のボランティアキャンプの宿泊施設を借りることにした。作業効率は落ちるが自炊はしやすくなる。
奥能登に到着したその日のうちに、最終的な開催場所をきめるため鵜飼い近くの海岸を歩いた。頭の中にはいくつかの候補があったが、事前に電話で管轄の行政に問い合わせた時の反応はあまり良くなかった。アクセスが良く海岸も整備された見附島周辺には、奥の方にひとつ有力な場所がみつかった。近隣を管理している会社を訪ねたら翌朝来てほしいと言われた。
次の候補は、宝湯から北側の海岸だった。グーグルマップで見ると砂浜が続いているが、すでに震災後防波堤工事が始まり、砂浜が残るところまでは宝湯からすこし歩く必要があった。さらに駐車場をどこかで確保しなければならない。
海岸部はどこも震災後の沈降で、以前見たときよりもずいぶん砂浜が少なくなっていた。
宝湯の前の本館の更地が、最も使いやすい場所だったが、足下には震災のがれきが落ちており、居心地のよい空間を作るためには、舞台と観客席を整備する必要があった。
翌日16日、再び見附島を訪ねると会場としての使用を断られた。有料のイベントであることが理由だといわれた。事前に地元の人から話を伝えており、大丈夫そうだと聞いていたのだが、候補地から外すしかなかった。
こうなった以上、すぐに判断をしなければならない。朝のイベントや足下のことまで考えれば海岸は理想的だったが、もともとの原点に戻り、お湯が湧き出ている宝湯の本館跡を会場にすることにした。
いそいでパソコンがある上黒丸にもどり開催場所の決定をネットで広報し、あわせて出演者とすでに申し込みをしてくれている参加者にも伝えた。さらにその日の午後は現地での新聞の取材があり、再び鵜飼に戻り、場所の決定を伝え、ホームセンターで作業のための資材を購入した。
もたもたする余裕はなく、17日には朝から制作の作業がはじまった。上黒丸で竹藪を紹介してもらい、半日かけて竹きりと加工の作業に入る。そして、軽トラを借りてそれを鵜飼まで運び込む。
会場のがれきは思っていたほど悪い状態ではなかったけれど、一晩過ごせる快適な場所にするためには、それなりに手を入れる必要があった。折からの雨で土壌も湿っている。台風が近づいてきており秋雨前線を刺激し天気が心配だった。日に日に風も強くなってきている。
18日には会場に運び込む土を手配することになった。私たちの手には負えないので、これも上黒丸の人たちに助けてもらう。震災で土砂崩れが起きた北山の復興現場に大量の土があるので、それが使えるかもしれないといわれ、現場まで連れて行ってもらった。
地下30メートルから掘り出あれた土は、かつての火山灰が風化してできた真っ白なカオリンだった。とてもきれいな土だけれど粘土質で雨に弱い。焼き物を焼くにはふさわしい。
何カ所もの作業場を見てまわり、比較的石が少ない山土を選んだ。工事の人たちも、どうせ捨てる物だから持って行くのはかまわないといってくれた。土の確保はできた。
問題はどう積み込むかと、どう運ぶかだった。会場の面積を考えると最低でも4トンは必要だった。仮にトラックは手配できても、人の手で土を積まないといけない。
山から下りて来る途中で、崖を切削している現場に通りかかった、案内してくれた人が、ダメ元で聞いてみようかといった。よく知っている人だった。こちらの事情を説明すると、もっといい土があるので、午後であれば時間があるから運びだそうと言ってくれた。いったん拠点に戻り、昼食をとり、作業の分担を決めて上黒丸から鵜飼の宝湯にむかった。
午後いっぱいトラックの横に乗り、珠洲市内の採土場を回った。砂地の良い土はあったが人の手で運び出すのはむつかしかった。結局、積み込みに重機が使える現場から土を運び出すことになった。
とりあえず水たまりができている窪地を埋めていくことを優先した。土を手に入れるために、工事の人も含めて、今日一日だけで10人以上の人に話を聞いてもらった。だれひとり「できない」とは言わず、「どうすればできるか」を考えてくれたのがとても印象的だった。
自分から動き「村人に話しかける」と新しい道が開けていく。人から人へとつながっていくようすは、まるでロール・プレイイング・ゲームのようだった。
土を会場に運び込むと土木工事が始まった。屋外インスターションの基本はまずは土木工事なのだ。2021年の上黒丸小学校での作品制作を思い出す。もし、会場が砂浜であれば必要のなかったはずの下準備で、丸一日、時間と労力を奪われる。
19日には、ようやく五右衛門風呂を設置して周りの環境の整備をはじめた。同時に現地入りしてくる出演者への対応や、参加者への案内や宿泊用の準備も進めなければならない。人数が読めないので駐車場も多めに確保する。
宿泊用のドームは15人ほど泊まれるし、個別の大型テントももってきていた。さらに朝まで残るつもりの人たちには、基本的には車中泊か各自でテントを用意してもらうように事前にアナウンスしていた。
しかしここで、震災後はゲストハウスで生計を立てている宝湯が、かき入れ時のシルバーウイーク中にもかかわらず、イベント当日の宿泊客をとらず、テントに泊まれない人たちのための部屋を無料で用意するといってくれた。
本当は、宝湯の部屋の利用も含めての支援のはずだったのだけど、逆に私たちが支援してもらうことになってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。
すべてが同時進行で5人の実働メンバーはフル活動だった。日が暮れるまで作業をして、宿泊拠点に帰り夕食をつくる。その合間に、広報や会計の整理をする。
せっかく能登まできているのに上黒丸の人たちとゆっくり話をする時間もなかなかとれなかった。それでも夜になると宿に遊びに来てくれたり、朝の作業前はみなでラジオ体操したり、合間の時間に家を訪ねたりと、できるかぎり村の人たちと会うようにした。
ダンサーの舞台や、炉端焼き用の炭や焜炉の手配をどうするのか、未確定な懸案事項については、夜のうちに複数の可能性を考えておく。
20日、もう明日にはイベントが始まる。昼前に三崎の材木屋さんが焜炉を持ってきてくれた。舞台用の手頃な板材を探していると話をすると、木片のチップはどうだろうかと提案してくれる。3トンのトラックを借りてチップを運ぶことにした。土よりもずっと軽いし柔らかい。トラックいっぱい積んで会場に広げる。
あわせて宗太郎さんが知人から畳の手配もしてくれた。多くの人のサポートに感謝しかない。椅子とテーブルにつかうための清酒ケースも届けられた。席はこれでたりそうだ。駐車場につかえる空き地を教えてもらい草刈りをする。
九州からの応援部隊が到着する。現場での作業はすでに一段落しているので、夕飯を依頼し、現場では当日にお皿代わりにする竹を割りながら、五右衛門風呂の排水のためのパイプが届くのを待っていた。パイプが届き、ここでようやく五右衛門風呂にお湯を張る。作業最終日のご褒美として、今日の最後にみなで入る予定だった。
しかしここで想定外のトラブルが発生。五右衛門風呂の栓を止めるために金属のパイプを打ち込み、温泉を入れたところ、風呂桶にひびが入り、一部が割れてしまった。
ためていた水が割れ目から勢いよく噴き出し、どうしても止められない。今晩中の修復は不可能と判断し、翌日の朝にホームセンターで修理用の資材を買うことにした。お楽しみのお風呂はイベント後にお預けである。メンバーは朝からのチップ運びや設営作業で汚れた身体のまま山に戻った。
21日、風呂桶の修繕が気になっていたので、早朝から動く。イベント中の作業分担を決めて、炉端焼き用の食材の手配と下準備のメンバーを残し、設営部隊は現場に急いだ。当日の朝から台風の風が強く天気が不安定だ。せっかく準備した会場も、ときおりふる小雨のたびごとに何度も撤収しなければらならず、そのあとまた設営し直すことになった。
とくにPA関連の機材はデリケートなので、最終的にテントをかりて設営し直すことになった。リハのために雨の合間をぬって音の確認をするけれど、前の晩に宿で確認していたはずの音出しの段取りが、現場ではなかなかうまくいかない。
夕方には雨も小やみになり、いよいよイベントがスタートした。ここまでくるともう誰にも止められない。台風の風はまだ強いが、五右衛門風呂には火が投じられた。
PAの不手際、進行のもたつき、炉端焼きの炭の手配の遅れなど、気づかない問題も含め、たくさん至らないところはあったと思うけど、プロの出演者たちはみごとにそれをカバーしてくれた。
厳かで力づよく、しかし愉快で楽しい祭りだった。世界中の神々(エナジー)がここに降り立った。宗太郎さんの最初の言葉が思いのすべてを語っていた。あの日、多くの命が奪われた、まさに震災の現場である荒野に、数年来のさまざまな逆境を越えて、私たちは今ここに立っている。
地震で失われた多くのものと引き換えに、私たちはまだ生きている。台風の風は夜半過ぎには覆っていた雲を飛ばし、空には月が現れた。寒さに震えた震災直後のあの日の星空に比べれば、今日の星空はなんと優しいことだろうか。
(イベントの内容については、ここのパフォーミングの詳細も含めて、ホームページと別稿で、あらためて書いておきたい)
最後に、以下は蛇足であり、たぶん私ひとりの問題である。
野研のメンバーもよくやってくれたし、上黒丸や宝湯のサポートは望んできた以上のものだった。できるだけ頼らずにやりたいと考えていた自分を恥ずかしく思い、臨機応変に動いてくれる地元の人たちにただただ恐縮するばかりだった。上黒丸の人たちにとって鵜飼は遠くてイベントには参加できないけれど、毎朝会うたびになにか困っていることはないか聞いてくれ、こちらが何かいうとそれが実現できるように人をつなげてくれた。
頼りながら助けあいながら、震災後の生活を乗り越えてきた人たちの優しさと力を、そこに見た思いがした。そして何よりも忙しい中で遠路はるばる駆けつけてくれた出演者の皆さんと、奥能登に集まってくれたお客さんには感謝の気持ちしかない。
とても素晴らしいイベントになったと私は思っている。もっとたくさんの人にみてほしかったし、自信をもって一つの再生の歴史を刻むことができたと思っている。
ただ作品作りと演出とその両方を同時に受け持った私が、それに集中できず、雑用と制約の中で思い通りに動けなかったことが、あくまで個人の思いとして心残りだった。
たぶん私がやらないといけないもっとも大事な仕事は、今回のイベントの依り代でありご神体でもある五右衛門風呂を納得いく物にする作り込みだったのだけど、結局、ほとんどそれに時間をかけることができなかった。
ドームは荒れ地に生える雑草や今も海辺に散らばる枯れ木や廃材をからませて、震災を乗り越えてもまだそこにあるような、もっと野性的な存在であってほしかった。五右衛門風呂も、この神が降りるイベントの主役としてこれまでにない表現を創りたかった。
このご神体と、その借景となる荒れ地にたつ斜めの電柱。舞台と客席の関係性と距離、もうひとつの竹の作品とPA用のテントの配置、そのすべてを納得がいくまで検討できる余裕があればよかったと悔やまれる。
せっかく借りられた畳もうまく生かせず、結果的に客席の位置が中途半端になり、あまり美しくないデッドスペースが生まれてしまった。炉端焼きの場所もすこし舞台から遠すぎたかもしれない。逆に中心のドームの横の空間は思い切ってもっと広げ、暗闇に浮かぶ五右衛門風呂の孤高感を演出すべきだった。夜になることを想定し、傾いた電柱も光の中に浮かび上がらせることだってできた。赤い提灯の明かりは逆光がまぶしすぎるので、あらかじめ用意していた布を巻いておくべきだった。もう一つの竹の作品の意味づけも不十分で、結局はただのイルミネーションとして曖昧なままごまかしてしまった。
繰り返し書いておくけれど、たぶんこれは私ひとりの問題である。他の人はもっと別のことを感じていたのかもしれない。
公演の最中に、せっかくのリソースを生かし切れていない、自分の力不足を感じていた。でも一方でたぶん今回のように余裕がない中で、もしこれ以上自分の思いを通していれば、たぶん多くの人たちにさらに負担をかけてしまっただろうとも思っていた。
イベントの前日に出演者のひとりからSNSを通して投げられた言葉に私はとても傷ついていた。すでにその言葉は一方的に削除されてしまっているが、その人に、私の思いをうまく伝えられなかったことが、そのすべての原因だったと思う。この人からはきっと信じられていないのだろうと感じた。けれどもはや思いを伝えることすらできなかった。
たとえ演出や作品として、こうしたいという強い思いが私にあっても、だからといって決して誰かを苦しませるために、このイベントをしているつもりはない。それぞれの人がベストなパフォーマンスができるように準備するのも制作の仕事だと思っている。最高のタイミングで最高の結果を生み出すために、相手に必要なものを求めるときに生じる葛藤は、つねに意識している。
9年前の歴史にはじまり、蛇足も含め長々と裏話を書いてしまった。
ひとつのイベントが成功に終わったときには、こんな裏話は必要ないことはよく知っている。どんな思いがあろうと結果として、生まれた作品やイベントの内容そのものがすべてであり、あの瞬間に立ち会った人にそれが伝われば良いのだと思う。
あの震災の日に絶望しながら見上げた星空や、その土地で亡くなった多くの人たちの悲しみ、生き残った人たちのつながりと、そして立ち上がり前に進もうとしている希望。
翌日の朝日を見ながら思った。どんなに人が演出し作品を作り込もうが、この日の出の美しさにはとうていかなわない。
荒涼とした震災後の野原の中で、台風の風や、瓦礫が散らばる地面や、虫の鳴き声や、月や星や、時折降る雨ですら、実はすばらしい演出になっていた。屋外でやると決めたときから、アンプや電気もいらなかったかもしれない。あの寒い日々には電気もなかったのだから。
もし震災の夜に思いをはせるのであれば、大地から湧き出す熱水のように、もっと粗野に任せて、自然を信じて、あるものをただあるように伝えればよかったのかもしれない。
もしかすると私がもうすこし出来ていれば、という思いこそ間違っていたのかもしれない。私ひとりでできることはたかが知れている。自然を信じていなかったのは、私だったのかもしれない。
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