ピアニスト・中村紘子の私見によれば、昆虫類はピアノの音を好み、爬虫類とくにヘビはヴァイオリンの音を好むらしい。だとしたら、人間はどの生き物に近い好みを持っているんだろう。人それぞれやろ、んなもんと言われてしまえば、それまでの話。
数を増していく手拍子、次々と繰り出される音の連なり、熱く息づく踊り手。しまいには、客なのか踊り手なのかよくわからない者たちでアーケードの一部を埋め尽くしたあの日。あれは「ミロンガ」だったのだと、横の席から降り注ぐ香ばしい煙のなかで気づいた。
「いーち、にーい、さん、しー、ご。ろく、なーな、はち」
講師レアンドロが口ずさむ番号に合わせて足を動かす。緊張しているのは、人と手を繋ぐのが久しぶりだから。手のひらにうっすら汗が滲む。相手が気持ち悪く感じていないかと不安になる。また変な汗をかく。
「力はいらない。リラックスして」
右手を相手の背中に添え、左手を少し上に掲げる。どの高さがちょうどいいのだろうと考える。もたもたしていると遅れてしまう。自分の膝と相手の膝がぶつかる。なかなかうまくいかない。つい、いわつさんに小声で「これで合ってます?」と聞いてしまう。いわつさんは「大丈夫。大丈夫」と励ましてくれたが、これではダメなのだ。タンゴでは男性はリードするのが仕事なのだから。相手がこちらの動きを待つことができるように、振る舞わなければならない。いわつさんはたとえ相手が僕でも、僕がリードするのを待っている。動きが僕と同時ではなく、ほんの一瞬のコンマ何秒というぐらいの差で、遅れて動いている。相手がプロのダンサーであれば、この動きのズレが素人目では分からないほど短いものになるのだろう。
しかし、動きを繰り返していると、氷が溶けるようにゆっくりと、焦りや緊張が薄れていく。同時に、なんだか楽しくなってくる。自分は踊れるんではないか、もっとイケるんではないかという気持ちが芽生える。もっとラクに、楽しく踊って良いのだ。レアンドロは途中の順番を飛ばして踊ってみたり、同じ番号を繰り返して踊ってみよう、と何種類かの踊り方を教えてくれた。
気持ちに余裕が生まれると、疑問が浮かぶ。1、2、3、、、という順番は3、2、1と戻して踊ってもよいのではないか?…と質問すると、レアンドロは自身の左胸に拳を当て、サムズアップした。音楽のリズムに合っていて、そして相手が心地よく踊ることができれば、ステップをどう組み合わせてもかまわないのだ。
レッスンの後、少し空いた時間に谷本さんやいわつさんと話した。レアンドロにはもうひとり、レッスンを待つ生徒がいるようだ。ムーブの待合室で、メットは自分のダンスのこと、そして僕は小学生のときにしていた神楽の話をすると、谷本さんは「おもろいなあ。英才教育やないですか~」と言って、自身のタンゴがなかなか上達しないことを吐露した。
「どうしても仕事とかで、長い期間レッスンに通えなくなる時期がある。だから、なかなか」
「はじめは、“え、俺が踊る?いやいや、楽器弾くほうでいいよ~”とか思ってたけどね」
ダンサーたちのことも聞いた。
「初対面だとしても、何の打ち合わせもなしに踊れるもんなんですか?」
「ものによっては決まった振付があるから、そういうのは練習がいるね。でもミロンガとかで自由に踊る分には、彼らは初対面でも踊れる。“カベセオ”と言って、踊りたいと思った女性に男性が視線を送るんだよ。そして、こうクイッと頭を動かす。そこで相手の女性も目を合わせてくれれば、それでペア成立。バチっと決まれば、初対面でもふたり同時に立ち上がってスムーズに踊りはじめる」
「“あの人の踊り、いいなあ~”とか、“あの人と踊るなら、こういう音楽のときに、こう踊ってみようかな”とか考えながら、ね」
とくに印象的だったのは、トリオロスファンダンゴスの演奏が変わったときのエピソードだ。
本場のアルゼンチンでミロンガを目にしたとき、自分たちの音楽の在り方を考えなおしたという。ここでおもしろいのが、それをわざわざ言葉で伝え合わずとも、それぞれの変化を皆が感じ取ったこと。パーティー後の練習のはじめから、三人ともハッキリとパフォーマンスが変わった。演奏を変えてもう一度ライブをしたとき、観客の「そうそう。そういうことです」といわんばかりの反応を見た。決してこれまでの反応が悪かったわけではないが、もしかしたらイロモノを見て楽しむようなものだったのかもしれない…と語る谷本さんの後ろでエレベーターの扉が開いた。目立つ蛍光オレンジの靴を履き、キャリーバッグを引くレアンドロの姿が見えた。
とうに夏至は過ぎたものの、そう簡単に日は短くならない。最後の生徒のレッスンを終えたレアンドロも加わり、河岸を変える。僕はいわつさんとレアンドロのスペイン語の会話を聞きながらふたりの後ろを歩いていた。昼間の暑い日差しは嫌いだけど、このぬくぬくした夕方は好きだ。頭上を走り抜ける陽の光が、艶のあるカナリア色からおぼろげなピンク色に変わる。勝山公園を横切るとき、シベリアンハスキーらしき犬が立ち上がり、飼い主とじゃれ合っていた。これもダンスみたいなものだとか言ってしまうのは、安直か。近所の犬・サブリナとは最近会っていない。生きているだろうか。
横断歩道を渡った先で焼き鳥の匂いが漂う。鐘を打ち鳴らす音がどこからか聞こえてきて、数歩先の地面に落ちていく。暗い駐車場と建物の間を抜けた先の店で、軽食をとることとなった。
ソースの溜まりの中に、ちらちらとパン粉が浮いている。ジョッキの底が、鈍い黄金色に光る。馬刺しの切れ端をちびちびと寄せ集めて食べながら、僕はレアンドロの話を聞いていた。つける醤油はほとんど残っていない。レアンドロは黒ビールの瓶を空にして、ときおりスペイン語を織り交ぜながら語った。
「聞きごたえのある音楽はすばらしいけど、踊りたくはならない」
この言葉を聞いて、どんな曲が思いつくだろう?と考えてみる。たとえばマタイの受難曲のように心に重く響く曲は、人を圧倒する力をたしかに持っている。聞きごたえはバッチリだ。でも踊ろうという気持ちにはならない。そもそも踊ることを考えて作られた曲ではないのかもしれないけど。ではタンゴで用いられる音楽は全て踊るため、タンゴのための音楽なのだろうか?そうともいいきれないんじゃないかなと考える。実際、レッスン中にレアンドロは踊るよりも先に歌いはじめることがあった。単純なテンポの良さや音の軽やかさ、楽器の違いなどではない気がする。そんな単純なもので、音楽の「聞きたい」「歌いたい」「踊りたい」「奏でたい」云々は区別されないと思う。というか、されないでほしい、という願望。
また会いましょうと挨拶を交わして、三人が改札を抜けるのを見届けた。すると、谷本さんだけが「ピッて言ってくれん」と切符を買いに戻ってきた。
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