2019年9月1日日曜日

夜と夢


しまった。私としたことが。まずい。これは非常にまずい。身動きがとれない。まさかこの私が。いや、しかし、何か脱出する方法があるはずだ。私は決して生きることを諦めない。諦めてなるものか。

幸いなことに、隙間が空いている。ここから腕を通せば…だめか。なかなか現実を受け入れられない。こんなものにまんまと嵌る者は一族の面汚しだと言って酒の肴にしていたが、いざ自分がこの立場に立ってみると、なかなかこれは恐ろしいものである。探し物をしていたら、突然、ブタ箱に放り込まれたのだ。放り込まれたというより、気付いたら自分から入っていたのだ。恥ずかしい限りである。手汗がひどくなってきた。正気を保とうと精いっぱいであるが、そんな意識とは裏腹に、心はますます乱れていく。息が苦しい。焦るな。焦るなよ。こんなもの、ただの鉄棒が縦と横に組んであるだけではないか。かたいものほど、実はもろいと言うだろう。

そう考えると、少し落ち着いてきた。そうだ。所詮、造られたモノ。どこかに文字通りの抜け穴があるはずだ。あ。私が入ってきたところは扉ではなかったか。確かそうだ。絶対にそうだ。ということは、あそこだけは開くことが約束されているということ。扉をこちらから押せば、開くかもしれない。迷っている時間はない。私はそう確信すると、弾丸のように扉に飛びつき、両腕が真っ赤になりそうなぐらい力を込めて、押した。わずかに、かちゃりと音がして、一瞬、足が出せそうなぐらい開いた。しかし喜んだのも一瞬だった。一瞬気が緩んだことで、また扉は閉まった。もう一度。かちゃり。…ダメか。扉を押すだけで全身の力を持っていかれる。少しでも動こうとすると、耐えきれず、扉が閉まってしまう。私は泣いていた。すぐそこに希望がちらりと顔を見せているのにその顔を見つめることはできない。

不幸には不幸が重なる。落ちた食べかすにここぞとばかりに群がる黒蟻のように。看守らしき人物が、牢屋をひっくり返しやがった。そして扉と壁をぴったりくっつけたものだから、もう開かない。希望は絶たれてしまった。希望のように見えて、ただのハリボテだったのか。腕から血を流しながら押したって、もう一生開くことはない。私は看守を見つめた。看守は笑うでもなく、怒るでもなく、やるせないような顔をしていた。罵詈雑言を履き散らして、目いっぱい私の体を痛めつけ、四肢を引きちぎってくれたほうがどんなに気が楽だろうか。

もう一人の看守らしき人物がやってきた。突然、その人物が牢屋を更に大きな箱に入れ、閉じた。真っ暗だ。笑える。私の未来、妻の未来、子どもの未来、一族の未来、全てお先真っ暗ということか。どこかに運ばれているようだ。いろんな人の声が聞こえる。自転車を漕ぐ音が聞こえる。シャッターを開ける音が聞こえる。しかし私にはもう関係ない。もうすぐ私の命は尽きる。絞首台か何かに連れていかれているのだろうから。

着いた先は、広い水辺だった。決して澄んでいるわけではないが、濁りきっていることもない。この世界の綺麗な部分と汚らわしい部分が凝縮されたような、緑色。思い返せば、決して陽の当たる人生ではなかった。血眼になって食料を求め、体じゅう泥だらけになりながら、夜、しんと静まり返ったときにしか生きることを許されなかった。慣れてしまえばなんてことはない。もう生まれる前からそういう環境だった。これで当たり前。普通だった。少し大きな者たちからは目の敵にされ、見つかればこうして捕らえられ、殺される。我々は食うために殺す。しかし彼らは私たちを殺すこと自体を目的とする。我々を殺したくて殺したくてたまらないのだ。いつからだろう。こんな関係になってしまったのは。この世界のどこかに、彼らに殺されずにすむ場所はないのだろうか。たとえ私たちがコソコソと生きていても、とくに気にしない。殺しもしなければ、何かを恵むでもない。互いに何もしない関係。どこかにありはしないだろうか。

いよいよ、私の死刑が始まる。覚悟はしていたが、どうしてか気持ちがざわつく。やはり、生きたい。死にたくない。生きることを諦めたくない。気持ちよりも先に、体が抵抗した。牢屋ごと少しずつ水に沈んでいく。私は牢屋の天井にしがみつきながら、必死でもがく。息が出来ないから苦しいのか、もがきすぎて苦しいのか。それの連続。腹が裂けそうになるのをこらえながら、息ができる場所を探す。ここまで懸命に生きたいと全身が叫ぶのは初めてだった。叫んだところで、これ以上生きられない。それでも関係ない。腕が、脚が、毛が、皮膚が、血管が、内臓が、筋肉が。割れんばかりに大声で叫んでいる。頭の中で反響し、脳が沸騰する。自分自身が心臓の鼓動と化している。何も見えない。何も聞こえない。それでも、私は―――





「月に寄せて」を聞きながら、彼のその後について考えていた。話によると、ぱたりと動かなくなり、そのままゆらゆらと流れていったらしい。徐々に弱々しくなることはなかったようだ。魂の抜け殻となった肉体はどこへ向かうのか。魂の行きつく先はどこ。私は彼の死に立ち会うことはできなかった。無責任だと言われれば、否定はできない。彼が私の故郷で生まれていれば、殺される必要は皆無であった。「生まれた場所」の呪いか運命か。ひとりひとりに一生付きまとう、それ。

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