遠い屋久島から聞こえてくるのは、茶園「深山園」の広安さんの声。
「もしもし、上田くん?ごめんね〜さっきまで寝てたんだ」
北九州に戻ってきて、二日ほど経ってから電話をかけた。バーベキューでずっと話をしていたけれど、せっかく連絡先を交換したのだから、もう少し話がしたかった。これまでの出来事を思い出しながら、30分ほど話をした。
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1日目:死
夜の船に乗って、夕飯を食べた。骨ばった月がようやくふっくらとしてきた頃だった。
小籠包やおかわりと、理想の死に方について話した。僕は寒い冬の日の夜にひとりで死にたい。冬の夜中の、重くて澄んだ空気が好きなのだ。腰骨にずっしりと乗る冷たい空気。そして、死ぬ瞬間は人と会いたくない。人と会ってしまうと、「やっぱり死にたくない」と思ってしまうから。たぶんね。
見ず知らずの場所で死ぬのもおもしろいかも。どの街で死ぬか?と作家が問うた本を以前読んだ影響かもしれないけど、「ここで死んでもいいかもな」と思える場所が、故郷でも家でもない場所だったらすごく幸せだ。病院のベッドの上もいやだけど、畳の上も同じくらいいやだ。行きずりの死もいいんじゃない?ただ、この死に方は他人に迷惑をかける。
「家族に迷惑をかけたくないから」と自分の死(というか、主に死後の手続きのこと)についてあれこれ準備するのは、消えかかっている自身の命に失礼だ。死後の手続きは残された者の役割だ。僕は死が「用意されたもの」のように感じるのが嫌なんだ。死ぬことより、社会の制度を見据えている感じが嫌なんだ。「いや生き物はみんな死ぬんだよ」と言われるかもしれない。ここで言いたいのは、生物として当然迎える死ではない。病院の問診票のように、数字を振り分けられ段階を追って□にチェックを入れながら迎えるような死に方だ。これがとても嫌なんだ。
少なくとも、両親や祖母が死ぬときは存分に僕に迷惑をかけていい。弟はどう考えているか知らないけど。死後のことぐらい、生きている人間に全ておっ被せていいじゃないか。そこは生きている人間の役割だよ。死後を気にしながら死ぬなんて、そんな不幸な死に方、ないよ。
消灯時間を迎えた。種子島に寄港して夜を過ごす。僕はハツメットがどこからか持ってきたゴザに寝転がり、タワシとドロンチョとしりとりをしていた。眠れなかったのだ。タワシ考案の「大きいものシリトリ」である。誘惑に負けたおかわりは、カップ麺を食べている。甲板の端で寝ているのは小籠包か。この日、ロケットが飛ぶという情報を得たが、いったいいつになったら飛ぶのだろう?もう日付が変わってしまうよ。まだ温かい甲板の上を、涼しい潮風が這う。
2日目:茶園
この日、僕らは深山園という茶園の人たちと行動をともにした。コスモスの前で出会った広安さんと、バーベキューであんなに話が盛り上がるとは思ってもみなかった。
「この大きな岩に、太い根をはっていて、びくともしないんですよ」
茶園の中でひときわ目立つ大樹のことを聞くと、信夫さんという方が大樹の真下まで案内してくれた。茶葉の列を掻き分けながら進む信夫さんの後に続いた。服や腕に小枝がポトポト当たる感覚が気持ちいい。皆で昼ご飯を食べたときも、作業で使う機械のことを信夫さんと話した。
広安さんや信夫さんたちと茶園を見て回った二日目は、「大川の滝」で締めた。岩から岩へ飛び移り、滝に一番近い岩の上に立った。ふくらはぎに力が入る。水面に飛び込んだ滝は、しぶきとなり、タンポポの綿毛のように空へと消える。はぐれてしまった綿毛が首筋に引っかかり、そして消える。
3日目:海
タワシと散歩した朝。サンダルがアスファルトをこする音が聞こえる。寝ぼけまなこの川を覗き込むと、大きなブロックが底に沈んでいた。ちぎった葉で川をかき混ぜる。一瞬できた渦はすぐに小刻みな波に戻る。後ろから聞こえるのは、タワシのシェーバーが震える音。とても静かで、やわらかい朝。帰り道、カニが側溝で顔を洗っていた。
4日目:盆
目の前を裸足の少女が駆けていった。地面に直に座っていた僕は、ズボンが少し湿っているのを手のひらで感じ、そのまま泥を払い落とした。あたりは杉で埋め尽くされている。少女は少し先の場所で、家族が追いついてくるのをじっと待っていた。
山道を歩くのは、とても久しぶりだ。小学校の頃以来かな。うっとうしくなるほどの土のにおいが懐かしい。
花火があがった。橋の向こう側で花火があがった。地元の人たちが、ぞろぞろと田んぼのまわりに集まってきた。ちゃぶ台のまわりに座っていた僕らは立ち上がり、家を飛び出した。
「○○の次男は、徳洲会におるらしい……」
とてもプライベートな話だけど、つい聞き耳を立ててしまう。予期しない日常会話が聞こえてくると、その町に住んでいる気持ちになる。
屋久島を車で回っているとき、隣にいた小籠包から「屋久島の人たちはお墓をとても大事にする」と聞いた。確かに車窓の前を流れるお墓に、花が枯れたお墓は見当たらなかった。お盆という時期も相まって、墓地の中央に提灯が掲げられていて、派手過ぎないほどに飾られていた。
5日目:使命
視界の左側が、ぼんやりと明るい。目を開くと、蛍光灯のヒモがゆらゆらと揺れていた。台所に立っていたのはタワシ、クリソ、どろんちょ、小籠包の4人。深く息を吸いながら起き上がる。額を拭った手のひらは、じっとりと濡れていた。
朝食ができるまでの空き時間に、「柴とうふ店」という豆腐屋に向かった。昨日の花火のあと、家に戻る途中でハツメと会話をしていた人が営んでいる店だ。入口の網戸を開けながら挨拶をすると
「ああ~いらっしゃい」
と、奥の作業場らしきところから店主が現れた。
「ここ(永田集落)は400人切ったね。むかしは2000人ぐらいいたんだけどね」
「この店は実家なんだけど、僕はむかし愛知で消防士しててね。淡路の震災のときは、ずっと駆り出されてたよ」
そう話しながら豆腐を用意する。
「よかったら、コレも飲んでみてよ」と、目の前のコップに豆乳を注いだ。
僕は幼い頃、豆乳を飲んで吐いたことがあった。だからもう何年も飲んでいなかった。しかし、目の前に出されたものは節操なくいただいてしまう普段の癖で
「どうも。」
ひょいと飲んでしまった。…なんだ飲めるじゃないか。
家に戻り、出来上がっていた朝食に買ったばかりの豆腐を追加した。ちゃぶ台は、いつも皿で埋め尽くされる。少し身を縮めて食べる朝食は楽しい。
もう一度海に浮かぶ。無垢な白い粒が目の前に広がる。外の空気に毒されず、滑らかな鱗を持つ友人と戯れるその白い粒を、いつまでも眺めていたい。カニがお尻から砂の中に潜っていく姿もかわいい。しかし、その願いはかなわなかった。突然吐き気に襲われた。視界が揺れはじめる。生まれてはじめて海の中で鳥肌が立った。昼食のあと、部屋に戻ることにした。畳の上に倒れ込むように横になった。足元の網戸が外れかかっている。
ハエの羽音で目が覚める。コンポストに生ごみを投入し、チクワから電話で聞いたものを玄関に用意する。マキタのライトと、飲み物と、野菜。おかわりやどろんちょはもうすぐ戻ってくるだろうか……
海のすぐ近くにある開けた草むらで、茶園の人たちとバーベキューをした。手作りのジュースと、三岳というお酒を飲みながら広安さんの話を聞いた。星がきれいな夜だった。
「精神的な使命が、あるんだよ」
「精神的?」
6日目:名前
屋久島より蒸し暑いここは、種子島。首や背中がやたら重い。車に乗っている間の記憶が全くない。寝ていたんだな。屋久島を出る前、「柴民芸品店」というお店の看板が目に入った。永田の豆腐屋も柴さんという人だった。親戚のお店だろうか?それとも、この苗字は屋久島に多いのだろうか。
遥か遠くの時代を生きた人々の生活を覗く。オシャレな人たちだったようだ。
広田遺跡ミュージアムの石堂さんと遺跡を巡る。
番号でもない、役職でもない、彼らの「名前」を知りたい。
7日目:漂う人々
♪お鍋に湯を入れ グツグツ煮たてて タマゴを茹でるもいいだろう(そりゃいいね)♪
真島昌利が歌うように、僕もタマゴを茹でている。あちらはカレーライスをつくるようだが、こちらはそうめんをつくっている。鍋がゆらゆら動くので、目が離せない。すぐそばで、食パンが焼けるにおいがする。
海であそぶひととき
海の隣には、宇宙を探求する人々の営みがあった。
記念に小さな便箋を買った。
魚をたべるぞ!
最終日:もう一度
太陽が上るよりもずっと先に、僕らは動いていた。みな荷物を手に取り、駆け足気味で車に乗り込む。雑草の棘が靴に食い込む。大きい荷物を後部座席に押し込み、時が来るのを待つ。全身が濡れ、蒸し暑い。奄美の嘉徳海岸に泊まったとき、車に戻る道が小川になっていたことを思い出した。着替える人もいるなか、ぼくはまた数時間の記憶を失う。
明け方に車を走らせ、近くの公園で朝食をとった。島の人からもらった漬け物が、おにぎりと調和する。大雨に悪戦苦闘してぐちゃぐちゃに詰め込んだ荷物を一度整理して、船着き場へと向かった。
高速船トッピー
高速線というだけあって、座席から動くことを禁じられた。
お湯と水風呂に交互に入る。温泉の窓からは、港町が小さく見えた。温泉を出たあとは、ズボンが濡れるほど汗が止まらなかった。ここから高速道路を走り学校に戻ったとき、時計は22時をさそうとしていた。
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「…みなさん無事に、北九州に戻られたんですね?」
「はい。なんとか」
広安さんは、うんうんと相槌を打ちながら話を聞いてくれた。電話の向こうには、バーベキューではあまり聞けなかった、かつての広安さんの姿があった。
「あのときの自分は、若すぎた」
「あの人は、ひとことで言い表せるような人じゃないんだよ。うーん……」
高校を卒業してから行った外国の話や、尊敬してもしきれないほどの人物の話だった。バーベキューのときに聞いた【精神的な使命】についてもう少し詳しく聞くことも考えたが、思いとどまった。これは電話の機械音声越しに聞くことではない。もう一度会って話すことだ。
最後にひとつ、引っかかる気持ちがある。今回、自分は屋久島や種子島をひと夏のレジャーのように利用したんじゃなかろうか。という不安。
「また行きたい」と思ったが、はたしてこの欲求をどんな方法で叶えるのか?このような欲求を糧にして普段の日々を送ることは、健全なのだろうか。今回はすし詰めのスキー列車のような乗り物はほとんど使っていないし(最後のトッピーぐらい?)、イモを洗うような海水浴場にだって行っていない。チンジャラチンジャラとやかましい騒音の充満するショッピングモールにだって近寄ってすらいない。しかし、「ひと夏の思い出」という額縁の中にはめ込んでしまえば、例のようなレジャーやレクリエーションの一部となってしまうんじゃないか。記録をしながら不安になってしまった。暮らしの隙間にある気休めにしてしまったが最後、精神的快楽の回復は遠のくばかり。
終わり
スピンオフ:健吉さんと過ごした日
健吉さんは、屋久島で一緒にバーベキューをした深山園のメンバーのひとり。1か月ほど前から「すごくおもしろい人」と話には聞いていて、会うのが楽しみだった。しかし、バーベキュー当日は広安さんとの話が予想以上に盛り上がり、健吉さんとは全く話すことなく終わってしまった。しかし偶然か運命か、健吉さんが小倉にやってくるという知らせを聞いた。これはラッキーだと思い、駅の新幹線口で到着を待った。ダンボール箱を乗せたキャリーカートを引いて、健吉さんはあらわれた。
「お名前は?」
「がじろう……上田雄大です」
「雄大かァ!いいねえ」
「うーん名前負けしそうですけどね」
「そんなこと言っているうちは、まだまだだねえ」
一緒に宿の手続きをした後、近くの喫茶店で話をした。といっても僕は、主に小籠包と健吉さんの会話を横で聞いているのに必死で、ときどき質問するのが関の山だった。今回の旅の目的や最近の健吉さんが考えていることを、ときに険しい表情で眼光鋭く話す健吉さんを前に、おもわず腰骨が立った。それでも、小籠包の話を聞く健吉さんの瞳は、バーベキューのときと同じように柔和だった。
話の途中で、健吉さんがある人物に電話をかけた。と思ったら携帯電話を渡された。耳にあて「上田です」と名乗ると、
「上田くん?いま健さんといっしょにいるんだってね!あっはっは」
楽しそうに話すのは、広安さんだった。
図らずもまた広安さんと少しだけ話して、電話を返した。健吉さんは黒文字を皿に置いて、電話を続けた。僕は水を飲み、ブリュレの中に隠れていたかき氷を口に含んだ。練乳とイチゴのソースが混じりあって、甘酸っぱい。
喫茶店を出て宿に戻る前、翌日の用事に誘われた。「僕みたいなのがいてもいいんですか?」と言いつつ、気持ちはノリノリだった。もう少し一緒にいられるならラッキーだと思った。用事はあれよあれよという間に終わった。意外と体力を消耗した。家に帰って軽く寝てしまうほどだった。不思議な気分だ。健吉さんは今晩まで宿に泊まり、翌朝の新幹線で小倉を発つという。
まだ8時にもならない頃、出迎えたときと同じ場所に僕は立っていた。久しぶりに見る雑踏の中から、左手をまっすぐ伸ばしてこちらに近づいてくる人物がいた。早めに来ておいて良かった。健吉さんは8時10分の新幹線で出発する。
「祈ってる。命に感謝だね」
そう言い残し、健吉さんはエスカレーターに向かって力強く歩いていった。振り返ることもなかった。
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