2017年6月22日木曜日

想起させること

 魚のいない海には、こんなにも魚がいないのか。
これまで魚のいる海にばかり潜っていたことが、よくわかった。3人がフル装備で潜ってメバル1匹。恋人達の聖地の先に広がるのは、死の海だった。
 変化のない浜を泳ぎ続けて、体に塩と疲れが残され、さらに予定外の食糧難となる。いつか来た国民宿舎で塩と疲れをとり、いつか行ったちゃんぽん屋を目指す途中、謎の地鶏屋へと吸い込まれた。1000円で一時間地鶏食べ放題という見たことのない料金体系の店だった。注文後45分ほどして最初の肉が来た。一時間を無視して東雲さんとどんどん鶏肉を注文し、予想外に満腹となった。そして、浜に戻るとさらに大量のビワが・・・。儀礼を前に胃には食べ物がたまっていったのであった。

 到着してすぐ、シンボッティは海をみていた。60代になって初めてみる(?)海はどんなものなのだろう。一人で海をみているシンボッティにビワを渡しに行くと、「初めて食べる果物だ」と喜んでくれた。
 きのこや大介がするムビラの話を何度も聞いていた。「チョコリンガーズは面白い人たちで、ヒッチハイクで小倉にきた」「ムビラは大學堂のシャッターに共鳴して、トリップ感を生み出した。不思議な音楽だった。」話やCDでしかきけなかったその音を、ようやくきくことができる。それも、いきなり彼らの師匠の音を。海とスタードームと焚き火のもとで。
 ちいさな無数の貝殻の上でスタードームに包まれ、ムビラの音はからだ中に充満していった。ムビラの機能は「Remind(想起させること)」。なんどもなんども同じ旋律を繰り返すようなのに、一度として同じ瞬間がない。儀礼をすすめるにつれ、螺旋階段を登るような降りるような不思議な感覚になった。ニューギニアで歩き回ってヘトヘトになった一日の最後に、ショーティの話を半分眠りながらきいていた時のことを思い出した。ショーティの話は、きいているその話の中へと溶けていくようだった。想起とは経験の中へと溶けていくような体験なのかもしれない。
 儀礼が終わって、シンボッティと話した。僕のジンバブエのイメージはハイパーインフレぐらいしかなかったけれど、シンボッティの話すジンバブエはどこでも焚き火ができる、トウモロコシ畑の広がる大地だった。

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