2018年9月25日火曜日

彼岸の海

その浜はいのちの影がうすく死の海と呼びならわれていた。その浜より先にある、いのちにあふれる浜は柵で道を塞がれている。
「柵の向こうで泳ぐと、見回りの来うが」
怖ろしいのは、見回りの若衆ではなく彼岸の海そのものという分別もなくためらっていた。
「死の海も秋やけん、魚がもどっとるかんしれん」
ダイスケは運転手を不安にさせないためか新しい銛を早く使いたいためか死の海に加勢をした。

夏日というほどに気温の上がらぬ死の海で、真夏と同じ装備では厚い皮下脂肪もさほどは役に立たない。群れて泳ぐ碧いスズメダイや水中に水玉模様を描くクラゲを観て紛らすが寒さは緊張と不安を連れてくる。みなが岸に引き返すときまで一人岩の上で待つことにする。雲を透かした日のぬくみにあたりながらうとうとと待っていた。

死の海は秋になってもいのちの気配が濃くなってはいなかった。ただ人を刺すクラゲだけはむやみとその姿を現して、イカテツの顔に証しを残していった。

死の海で初めて魚を突いたいぼりは、手応えのなさに首をかしげつつ獲物を持ち帰り、私は運転のお礼にとボラを分けてもらい家に帰った。

実家で待つ姪たちは、食べ慣れぬものは好まぬ人たちではあるが、ボラのココナツミルク煮を食べさせようと田舎では買えぬ缶詰を携えて家に向かう。
案の定「ココナツミルクは食べきらん」と顔をしかめる。
「それより刺身が良か。ばあちゃん刺身にして」
「ぞうたんのごつ。だがこげな夜中に魚ば触ろうか」
上の姪は譲らず刺身、刺身とぎゅうらしい。
「しゃっちが夜中に食べんでよかろうが」
と応じる母もぎゅうらしい。
「そげん言うなら自分でせんね、しきろうもん」
私は母にも聞こえるぐらいの小声で姪をちょうくらかす。
「ばってん、ばあちゃんにおごらるっもん」
「さっとしてぴしゃっと片付けたら、おごらっさんくさい」
姪は母をちろりと見やり、家庭科の成績は5ばいなどとあごをたたきながらボラをまな板の上にのせる。見慣れぬことをはじめた姉の隣にすり寄った下の姪が不意に「かわいか」と声を上げる。
何やかと一息戸惑った後に、ボラのくるりとした目が思い浮かぶ。
娘たちの騒ぎを聞いた兄に下の姪が「ねえちゃんはかわいか魚にブサッち包丁ば刺さしたっばい」ととすける。
「ボラか。ボラはむぞかけんじょうられんもんね。おいばみよっばい、ちてから」
「ばってん、そいはもうじょおってあるけん」
と笑い、兄にビールをほとめかれていると姪が初めてひいた刺身が運ばれてくる。
ボラはまな板の上でもたんもたんされるうちにしょっちゃりしていたが、彼岸の海からいただいたいのちには違いなかった。

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