足を踏み外しダムの底に沈まぬように、山の斜面を這うように。そうして歩くと見えてくる小さな丘の上に、学校がある。手入れの行き届いていない、真っ黒な森を抜けると見えてくる巨大なイチョウの木が目印だ。学校も森も、そしてイチョウも、その役目を終えようとしている。
校舎のなかには木(おそらく杉)でつくられた、世に出ることなく非業の死を遂げた歌人の歌碑がずらりと立ち並んでいる。ここで過ごす子どもたちは、毎朝校門の前で、係が選んだ歌を詠む。毎朝だけでは飽き足らず、とうとう歌を群読に変えて、群読のみをおこなう時間割まで作った。
群読は「い」「ろ」「は」の三つの組に分かれておこなう。「い」組が主旋律となり、「ろ」組はその後を追うように歌う。「は」組は擬音を表現する。「は」組は歌う箇所が少ないながらもインパクトが強いので、印象に残りやすい。
群読のなかで、子どもたちがこぞってやりたがるのが、指揮者だった。さも自分が皆をまとめているように錯覚して悦に浸れるのだろう。伴奏はピアノが弾ける人がやらされるので、本人の意思はあまり考慮されない。
皆なかなかやりたがらないが、最も注目を集め、その人の声色だけを全ての聞き手に感じとってもらえるのが「独唱」だった。ひとつの歌を独唱者が歌い終えると、「いろは」の三組が同じ歌を群読する。独唱者の表現力でその歌の印象が決まる。
百人ほどの少ない人数で、小さな無名の学校だった。図工と劇と合奏をしている時間ぐらいしか楽しかった記憶がない。そんななか、群読をしている時間だけは、町の外からやってくる大人にはさっぱりわからない味を感じることができる気がした。この気持ちを誰かに渡してたまるものかと強く思っていた。
イチョウの木はとても太く大きい。貼りつくことに精いっぱいで、登ることはできないほどだった。天高く伸びた枝を見上げると、乾いた青空と重なる。その様子は異次元と常世の隔たりをむりやりこじ開けてくるヤプールによる、次元の壁のひび割れのように見えるのが楽しかった。
地面に落ちたイチョウの葉を集めて投げ合うこともあった。木から落ちてもいいように、葉でクッションを作ったこともあった。一番記憶に残っているのが、木の周りにたくさんの「自動シャボン玉製造機」なるものを配置して円をつくり、合図とともに一斉にシャボン玉を解き放ったことだ。校庭いっぱいにシャボン玉が舞い、そのなかで子どもたちがイチョウの葉を空に向かって投げる。目が覚めるような黄色い扇の舞と淡い虹色の玉の泳ぎが混ざる様には皆が気圧されていた。
大人たちを横目に、歌ったり遊んだりする子どもたち。
子どもたちの声を聞きながら、音楽家が新たな曲を作っている世界が垣間見える。