2019年8月17日土曜日

情熱と義務のあいだ

ギリシャの神々は人に情熱を与えた。ミノスとパジファエの娘、そしてミノタウロスの姉であるフェードルは、その情熱と欲望にのみ苦悩したのではないだろうか。
ところが数千年の時を経て、ネプチューンの名を唱えながらそこに唯一神の面影を観る男によって描かれたフェードルは、情熱と義務とのはざまで苦悩する。
義務とは何か。


エノーヌはしきりにその立場を説く。妻として貞淑であれ、母として子を守り、妃として妨害するものを排除せよと。
エノーヌは、宮廷に仕えるあまたの女性の中でも頂点である妃の側近という己の立場から、妃を守り、国を治めるために策を巡らす。


多少の詭弁にひるむことなかれ。
全てはあなたのお立場を守らんがため。
お立場を守ることがあなたの命をお救いする。
そう信じて疑わない。




それが真実であるならば、なぜエノーヌは捨てられた。
立場とは何か。



それは人が人の世の掟として決めたもの。
それでは、神が人に与えた義務とは何か。


恋という情熱はときに人の手に負えぬほど激しく、人の心を覆い尽くし、神の名を呼びながらその神が示す道から遠のかせる。
恋をしてその人を愛おしく思うのならば、そのとき神が示す義務は愛しい人の幸福を願い、それに尽くすことだろう。


イポリットは恋をした。
誠実な彼は、愛しい人の自由と幸福を願った。ところがそこに魔が差す。権力を手に入れる機会が現れる。愛しい人とともに権力をこの手につかめるかもしれない。
愛しい人アリシーは、イポリットに恋をした。そして自由と権力と美しく誠実な恋人を手に入れることを願った。




イポリットに恋をしたフェードルは、その強すぎる情熱に戸惑い、自分の幸福に怯え、愛しい人の幸福におののいた。不安に駆られる心は、エノーヌにそそのかされ、自らが仕掛けた罠に絡め取られ傷が深くなっていく。




情熱と義務の対立は、ネプチューンの神が思し召したことではない。
ただ人がそう解釈し、信じ、その身を投じたにすぎない。

2019年8月16日金曜日

仄暗い海の底から


空という照明はそう簡単に暗転しない。劇場と違って「さあ始まるぞ」と心構えができないまま、演劇が始まる。俳優は浜に立ち、観客は浜に座る。ただそれだけの違い。心構えなど不要であった。俳優が台詞を発した瞬間、私は王族に仕える使用人か奴隷か何かとなり、靴を砂まみれにしながら話を傍観していた。

私には、雲の上の存在である王様方の色恋沙汰はさっぱり理解できない。神に選ばれし人間としてこの世に生を受けていれば、ちょいとばかりはかかわりがあるかもしれないのだが。まあ、そんな私も色恋沙汰に興味がないわけではない。私にだって恋い慕う人の一人や二人いる。嘘。一人だけ。フェードル様はイボリットさまのこととなると、まさしく恋する乙女。エノーヌ様と繰り広げるガールズトークは、見ていて、聞いていて、なんだか私も心躍ってくる。しかし、フェードル様の恋のお相手はイボリット様。血のつながりのない、義理の息子。血のつながりがないからこそ恋してしまったのだろうか。親子という、穢れてはいけない神聖な繋がりにあるからこそ、逆に恋に燃え盛るのだろうか。エノーヌ様やその他大勢が反対するから、その心の炎はより勢いを増すのだろうか。燃えるたいまつから放たれる黒い煙のにおいが、人の情欲の生々しさを感じさせる。きれいとか汚いとかではない、肉欲のもつ強さ。煙がそのにおいを強めるごとに、より欲望も強くなっていく。

 たいまつの向こう側で繰り広げられる世界は歪んでいた。人も、波も、空も、手でグジャグジャにされたみたいに歪み、形を保たない。世界はふわふわして、ゆらゆらして、本当にそこにあるのかどうか分からなくなってくる。自分は本当にここに座っているのか、起きているのか、眼を開いているのか…自らの心さえあるのかないのか。心を支配しているのかされているのか。この気持ちは恋なのか欲なのか。炎のなかに自分がいるようで、いないようで、生きているようで、死んでいるようで。自分はいてもいなくても、どうでも良いようで、良くないようで。炎すら存在しているようで、していないようで。

 目の前が乱れてきた。波が迫り、砂が飛び散り、怒号が飛び交っている。空が暗くなる。炎はより一層赤みを帯び、空から垂れたインクが海を黒く染めていく。迷いだろうか。怒りだろうか。みな、誰かに話しているようで、自分に言い聞かせているようにも見える。心の内を外に出し、それを聞き、また心に戻す。何度も何度も、心臓に焼き印をしていく。人と人がぶつかる。欲と欲がぶつかり、混ざりあい、音を濃くしていく。

恋敵を殺す。恋敵は邪魔以外の何物でもない。これは絶対に確かなことである。邪魔で邪魔で邪魔で仕方がない。その人間さえいなければ、という底知れぬ渇望。自分にとって恋敵は完全なる悪。地獄からの使者。疫病神の化身。人類史上最も忌み嫌われるべき闇。今、ここに好きな人はいない。では、どこにいるのだろう?もしかしたら、恋敵と会っているのかもしれない。恋敵と談笑し、食事をしているかもしれない。その恋敵は最低最悪の人間であることに、なぜ気付かない!!!もはや人間ですらない。ゴミ同然の存在である。もしばったり会ったらどうしてくれようか。呪詛の歌をうたいながら、爪を剥ぎ、わき腹を刺し、のたうち回り、泣き叫んでいる悲しい口元をこじ開け、熱した鉄棒でも突っ込んでくれようか。もしくは、意識がある状態で丸太か何かにしばりつけ、身動きがとれないところを足元から輪切りにしてくれようか。いずれにせよ、奴には痛い目をみてもらわねばなるまい。身体的にも精神的にも。しかしどれほど奴の苦痛を肴に飲み食いしたところで、私の気はおさまらない。もっと、もっと。さらなる苦痛を。宇宙が破滅するほどの痛みを。神がおそれおののくほど狂った燃えカスと化せ。骨の髄まで焼き尽くされろ。なぜ私でなく奴なのか。私には何が足りないのか。知りたくても知ることができない。聞くことができない。勇気が出ない…いつもそうだ。私は愛される権利を持ち合わせてはいないのだろうか。あの人のときも、あの人のときも。いつも私は失敗している。見向きもされていなかったり、大した存在でなかったり。何が原因なのだろうか。よくよく考えてみると、私は愛情表現というものがよく分からない。一番身近だった父と母の間で、愛情表現というものは皆無だった。人を愛するとき、自分はどう動くべきかが分からない。自分が情けない。そんな自分にも怒りが湧く。「いい人」とは、好かれる人のことを指すのではないことが、最近になってようやく理解できた気がする。「いい人」の「いい」に含まれるのは、「良い」ではない。そんな意味は少しも含まれていない。いてもいなくでも変わらない、街中に転がっている石ころと同然の存在であるという意味だ。たまに便利に使えるからいっか。という意味も少し含まれる。人間としての魅力も面白味も色気も生気も何もかもがひとかけらもないから、他に形容する言葉がないのだ。だから、とりあえず「いい」と言っておけばよいだろうという程度。自分でも笑えてくる。どうしてこんな人生になってしまったのか。どこで道を踏み外したのか。決して率先して「いい人」であろうとしているのでは決してない。気付いたら、いつのまにか「いい人」「いい奴」と呼ばれているのだ。「いい人」のまま一生を終えるのは嫌だ。一度でいいから、愛されるということを経験してみたい。お互いに愛し合うことの幸せを感じてみたい…と、炎の中で私はぼうっと考えた。倒れたたいまつから飛び散った油が腕についた。太い針で突き刺されたような痛みが右腕を走り回る。右腕の筋肉が全て飛び起き、苦悶に満ちた表情の赤血球が駆け回る。一瞬聞こえたジュッという音が、なんだか、最後に振り絞った命が必死に腕に喰らいついていることをはっきりと私の腕に刻みつけた。

フェードルが叫んで、入水した。暗い、暗い、不気味な海にその身を委ねた。彼女はこの瞬間が幸せの絶頂だったのだろう。叶わぬ恋だったかもしれない。けれども、やはりイボリットのことが好きで好きでたまらないのだ。誰が何を言ったところで、その気持ちに影が差すことはなかったのだろう。恋心に全てを支配されるぐらい人を愛したフェードルは尊敬に値する。私もそんな風に死にたい。

2019年8月14日水曜日

いつの時代でも人間は愛に振りまわされる

海で遊ぶのは初めてだった。
特に嫌なわけではなかったが、遊ぶ機会が今までなかった。
いざ入水。初めての海は冷たく、水がしょっぱかった。
服装は濡れてもいいように高校の時の体操服で入った。服はめちゃめちゃ海水を吸うのでだんだん動きにくくなっていった。海水に入り、したことは水かけバトル。選手は、はつめ、がじ、だいちゃん、ゆかわの四名だった。楽しかったが、思いのほか、きつい競技であった。

さて、本題に入る。今回はうずめ劇団の「フェードル」という悲劇を見た。
登場人物は、フェードル、イボリット、テラメーヌ、エノーヌ、アリシー、テゼー、パノープ。私は「フェードル」という劇は、「愛」がテーマではないかと思う。イボリットはアリシーに、アリシーはイボリットに、フェードルは息子であるイボリットに禁断の恋をし、エノーヌはフェードルに対して家族愛のようなものをしていた。どろどろの恋愛劇だと思っていたら、劇中に登場人物の三人も死んでしまうという展開。イボリットは旅の途中で、エノーヌはフェードルに魔物扱いされて、フェードルはイボリットがアリシーを愛していること、またイボリットの死を聞き、自分の罪を告白して水の中に入って自殺をする。

私には愛と言うものにみんなが振り回されているように感じた。私は劇中に『自由からの逃走』や『愛するということ』の著者エーリッヒ・フロムと『北斗の拳』のサウザーが頭に浮かんだ。フロムにはかつて愛していた人がおり、彼女の父が死ぬとその後を追って自殺をしたという経験をしている。そのときにフロムは「愛は死に至ることもある」と気づき、この出来事をきっかけに精神分析家になったと言われている。「愛は自分を死に追いやることもある」愛の前では人間は無力であり、自ら死を選んでしまうほどだ。失恋したことがある人は分かるかもしれないが、どうしても精神的に病んでしまう。考えたくもないのにその人の顔や声、仕草を頭に浮かべてしまい、とてもつない絶望感に襲われ、数日、長い人では何年も引きずってしまう。愛するという行為はつらく苦しいものであるのだ。でも、一度では懲りずに何度も人を好きになっていく。なんでだろう。そこで私は『北斗の拳』のケンシロウの言葉を思い出した。マンガの中でサウザーという敵が出来てくる。そのキャラの口癖が「愛ゆえに人は悲しまねばならぬ」や「愛などいらぬ」
である。確かに、私たちは愛ゆえに苦しみを得ている。劇を見ても分かることだ。愛ゆえに登場人物が苦しんでいき、自殺をしていく。ケンシロウはこの言葉に対して「哀しみや苦しみだけではない、お前もゆくもりをおぼえているはずだ」と言う。私たちは、人と人とのぬくもりを忘れることができないのでぬくもりをくれる人をさがしているのである。このことについてはフロムも言及している。幼いころは、無条件に人からぬくもりを得る。私たちも赤ちゃんを見ると触るといったことをするだろう。だが、大人になるにつれてぬくもりを自動的に得ることができなくなる。そこでぬくもりを与えてくれる人を探す。愛してもらうために、自分から行動してぬくもりを与えてくれるように仕向ける。それには「技術」が必要であるとフロムは言う。

私たちは昔でも今でも愛という得体のしれない感情に振り回される。
どんなに発展した現代社会、愛についての研究が進んでも昔と変わらずに愛という感情には勝つことができないのだと感じた。愛は死に追いやることができる、一番残酷な感情、概念であると言える。私たちは愛と言うものに真剣に付き合っていかなければいけないのである。


恋愛について書いている本は少しずつ読んでいる。今読んでいるのはスタンダールの『恋愛論』である。これも少し読んだがなるほどと思った。気になる人は読んでみてください。

海を臨んで

私にとって今年初海、そして何年か振りの入水。小学生振りくらいだと思う。
実は野研に入っておきながら、長らく「海はベタベタするから嫌」とかそんな類の女をやっていた。今日は到着して早々に濡らすつもりのなかった服を盛大に濡らした。
今日の海はお魚突き用の海ではないのでみんな戯れるだけ。なんだってやれば楽しいものだ。綺麗な海で魚を突く、絶対にもっと楽しい。

日が沈もうとする頃今日の本題、うずめ劇場の「フェードル」が始まる。300年程前にフランス人の戯曲家に書かれた戯曲。王妃のフェードルが義理の息子イポリットに恋に落ち、そこから始まるギリシャ悲劇だ。

本当の海を背景に劇は上演される。観劇は時々するがこんな経験は初めてだ。あの場にいた誰もが初めてだっただろうと思う。この作品は海がキーアイテム。フェードルの愛するイポリットも、フェードルを慕うエノーヌも海に飲まれて死んでいった。フェードも毒に蝕まれながら海で死を迎える。波の音、潮の香り、ずっと続く地平線。全てが舞台の情景を思い起こさせた。海でこの作品を行うというのは本当に理想的で、海でしか感じられないリアリティー、激情があった。


私が感情移入をしたのはフェードルとエノーヌ。自分が女性だからか、共感や同情の場面が度々あった。フェードルが相手に思いを告げたあと、自分の気持ちを相手に示すことを明け透けに行うようになった箇所は激しく同意するし、エノーヌが全てを捧げているフェードルに捨てられる場面は本当に苦しかった。確かに、「ちょ、エノーヌ唆かすなって!!」となった場面は多々あった。だけど、それも全てはフェードルの幸せを願って、フェードルにとって何が1番かを自分なりに考えて行ったことだ。フェードルとエノーヌが気心のしれた風に話しているのはとても好きだったのに。フェードルが白状した後の王の反応にも少し落ち込んだ。反応も薄く、フェードルのことを愛情の対象からすぐに除いた。「愛していたのに」ぐらい言ってくれ。最後フェードルが毒によりフラフラしながら、そこにいる人たちに一瞬縋った様子はとても印象的だ。王は一瞥もしなかったように思う。あの作品の中で気にくわない人物No. 1は王かもしれない。
時代背景とか、問題とか色々あるかもしれないが、フェードルが海の中でイポリットとエノーヌと再会はしなくとも海として一体になれたらいいな、と大阪行きのフェリーの展望デッキの上で強い風と波に揺られ、カップラーメンを啜りながら海を臨んで考えている。
いま男性のパンツが私の横を飛んで行った。本当に風が強い。






かなわぬ恋は波のまにまに

迷い込んだ海岸では、太陽とかくれんぼする人たちと何やら忙しげに動く人たち、そして、ミカエル様がいた。
あたりが暗くなり始めたころ、

ザザー、ザパーン、ザサー。
よせてはかえし、
パチパチ、パンッ、ボフォー。
形を変えながらあたりを照らす。
二つのアルケーがこの日、ある悲劇を呼び起こした。

夫テゼーが留守の間、継子イポリートに恋心を認める妻フェードル。打ち明けられた乳母エノーヌ、知ってしまったイポリート。
皆死んだ。妻も継子もかなわぬ恋によって。
愛の女神に憎しみを買っていたこの家系。フェードルとイポリート。テゼーに対する反逆者一族の娘アリシーとイポリート。皆タブーとみなされる欲望に突き動かされる。
テゼーもついにアリシーを養子に迎えた。

エディプス王というギリシアの戯曲ではエディプスは母イオカステーと結ばれ、父ラーイオスを殺した。(最後イオカステーは死にエディプスは自ら盲目になる。)
対し、このフェードルという戯曲では、子は母とは結ばれず、父も殺されないどころか、父は生き子と母が絶命。

皆情熱的に生き。
皆死ぬ。
罪悪感か、運命か。

法や義務は人を縛るか。
法や義務は人を生かすか。

情熱的に燃え、そして、立ち枯れた一本の大天使がニヤリと笑いかけた。ような気がした。

海で過ごした3日間



8/10〜12、私たちは、若松の逆水浜にいました。

スタードームをたてて、



ご飯を食べて、 


海に入って、




劇を見ました。


劇は、"フェードル"を見ました。
(海に来る前は、アイアンシアターで"贋の侍女"を見ました。)

海で劇を見たことがあるのは、
観劇家の中でも何人いるのでしょう。
きっと、思うよりずっと少ないと思います。

劇場じゃないところで見る劇は、なんだか、みんなで一つの感じがもっと強調されます。
だって、舞台と客席のような明確な境界がないからです。だから、なんだか、舞台上で観劇しているような、贅沢で優雅な気分でした。
でもどうして"フェードル"を海で魅せる必要があったのでしょう。
Oh,私はペーターに聞いてしまいました。
そこにはネプチューーーーンが関係しています。その神様は海の神。そして、フェードルの侍女・テリーヌが死んだのも、イポリットが死んだのも、海。今回はフェードルも、毒を盛った自分の身体を海に還しました。この作品に海は欠かせない存在だったのです。

そして私は初めて西洋の古典の劇を見ました。ずーっとずーっと思っていたことは、台詞が存分に長いのです。ね、日本の万葉集なんか超シンプルに想いを伝えているのに、、、だから私にとっては日本語を聞いているのに、翻訳が必要でした、、、、大學堂で日本語が話せないお客様が来られた時と同じ脳みその働きです。

ペーターが、今度大學堂でワークショップをしてくれると言ってくれました。
ん〜待ちきれません!

2019年8月10日土曜日

花火の日!

花火をしたよ

この花火は国産で、一本一本職人の手作りなんだーー
北九州で売っているのは大學堂だけだよ。

みんなも一緒に花火しよー!
これは国産じゃないやつ!煙の量がアラジンだね


これは大人の花火の遊び方だよ。良い子は良い子用のフォームで楽しんでね