2019年8月14日水曜日

いつの時代でも人間は愛に振りまわされる

海で遊ぶのは初めてだった。
特に嫌なわけではなかったが、遊ぶ機会が今までなかった。
いざ入水。初めての海は冷たく、水がしょっぱかった。
服装は濡れてもいいように高校の時の体操服で入った。服はめちゃめちゃ海水を吸うのでだんだん動きにくくなっていった。海水に入り、したことは水かけバトル。選手は、はつめ、がじ、だいちゃん、ゆかわの四名だった。楽しかったが、思いのほか、きつい競技であった。

さて、本題に入る。今回はうずめ劇団の「フェードル」という悲劇を見た。
登場人物は、フェードル、イボリット、テラメーヌ、エノーヌ、アリシー、テゼー、パノープ。私は「フェードル」という劇は、「愛」がテーマではないかと思う。イボリットはアリシーに、アリシーはイボリットに、フェードルは息子であるイボリットに禁断の恋をし、エノーヌはフェードルに対して家族愛のようなものをしていた。どろどろの恋愛劇だと思っていたら、劇中に登場人物の三人も死んでしまうという展開。イボリットは旅の途中で、エノーヌはフェードルに魔物扱いされて、フェードルはイボリットがアリシーを愛していること、またイボリットの死を聞き、自分の罪を告白して水の中に入って自殺をする。

私には愛と言うものにみんなが振り回されているように感じた。私は劇中に『自由からの逃走』や『愛するということ』の著者エーリッヒ・フロムと『北斗の拳』のサウザーが頭に浮かんだ。フロムにはかつて愛していた人がおり、彼女の父が死ぬとその後を追って自殺をしたという経験をしている。そのときにフロムは「愛は死に至ることもある」と気づき、この出来事をきっかけに精神分析家になったと言われている。「愛は自分を死に追いやることもある」愛の前では人間は無力であり、自ら死を選んでしまうほどだ。失恋したことがある人は分かるかもしれないが、どうしても精神的に病んでしまう。考えたくもないのにその人の顔や声、仕草を頭に浮かべてしまい、とてもつない絶望感に襲われ、数日、長い人では何年も引きずってしまう。愛するという行為はつらく苦しいものであるのだ。でも、一度では懲りずに何度も人を好きになっていく。なんでだろう。そこで私は『北斗の拳』のケンシロウの言葉を思い出した。マンガの中でサウザーという敵が出来てくる。そのキャラの口癖が「愛ゆえに人は悲しまねばならぬ」や「愛などいらぬ」
である。確かに、私たちは愛ゆえに苦しみを得ている。劇を見ても分かることだ。愛ゆえに登場人物が苦しんでいき、自殺をしていく。ケンシロウはこの言葉に対して「哀しみや苦しみだけではない、お前もゆくもりをおぼえているはずだ」と言う。私たちは、人と人とのぬくもりを忘れることができないのでぬくもりをくれる人をさがしているのである。このことについてはフロムも言及している。幼いころは、無条件に人からぬくもりを得る。私たちも赤ちゃんを見ると触るといったことをするだろう。だが、大人になるにつれてぬくもりを自動的に得ることができなくなる。そこでぬくもりを与えてくれる人を探す。愛してもらうために、自分から行動してぬくもりを与えてくれるように仕向ける。それには「技術」が必要であるとフロムは言う。

私たちは昔でも今でも愛という得体のしれない感情に振り回される。
どんなに発展した現代社会、愛についての研究が進んでも昔と変わらずに愛という感情には勝つことができないのだと感じた。愛は死に追いやることができる、一番残酷な感情、概念であると言える。私たちは愛と言うものに真剣に付き合っていかなければいけないのである。


恋愛について書いている本は少しずつ読んでいる。今読んでいるのはスタンダールの『恋愛論』である。これも少し読んだがなるほどと思った。気になる人は読んでみてください。

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