2019年9月6日金曜日

昼飯

最近、トマトをいくつか買って四つ切りにし、丼に盛り、フォークで刺し、食すことが大學堂での楽しみである。

2019年9月1日日曜日

夜と夢


しまった。私としたことが。まずい。これは非常にまずい。身動きがとれない。まさかこの私が。いや、しかし、何か脱出する方法があるはずだ。私は決して生きることを諦めない。諦めてなるものか。

幸いなことに、隙間が空いている。ここから腕を通せば…だめか。なかなか現実を受け入れられない。こんなものにまんまと嵌る者は一族の面汚しだと言って酒の肴にしていたが、いざ自分がこの立場に立ってみると、なかなかこれは恐ろしいものである。探し物をしていたら、突然、ブタ箱に放り込まれたのだ。放り込まれたというより、気付いたら自分から入っていたのだ。恥ずかしい限りである。手汗がひどくなってきた。正気を保とうと精いっぱいであるが、そんな意識とは裏腹に、心はますます乱れていく。息が苦しい。焦るな。焦るなよ。こんなもの、ただの鉄棒が縦と横に組んであるだけではないか。かたいものほど、実はもろいと言うだろう。

そう考えると、少し落ち着いてきた。そうだ。所詮、造られたモノ。どこかに文字通りの抜け穴があるはずだ。あ。私が入ってきたところは扉ではなかったか。確かそうだ。絶対にそうだ。ということは、あそこだけは開くことが約束されているということ。扉をこちらから押せば、開くかもしれない。迷っている時間はない。私はそう確信すると、弾丸のように扉に飛びつき、両腕が真っ赤になりそうなぐらい力を込めて、押した。わずかに、かちゃりと音がして、一瞬、足が出せそうなぐらい開いた。しかし喜んだのも一瞬だった。一瞬気が緩んだことで、また扉は閉まった。もう一度。かちゃり。…ダメか。扉を押すだけで全身の力を持っていかれる。少しでも動こうとすると、耐えきれず、扉が閉まってしまう。私は泣いていた。すぐそこに希望がちらりと顔を見せているのに、その顔を見つめることはできない。

不幸には不幸が重なる。落ちた食べかすにここぞとばかりに群がる黒蟻のように。看守らしき人物が、牢屋をひっくり返しやがった。そして扉と壁をぴったりくっつけたものだから、もう開かない。希望は絶たれてしまった。希望のように見えて、ただのハリボテだったのか。腕から血を流しながら押したって、もう一生開くことはない。私は看守を見つめた。看守は笑うでもなく、怒るでもなく、やるせないような顔をしていた。罵詈雑言を履き散らして、目いっぱい私の体を痛めつけ、四肢を引きちぎってくれたほうがどんなに気が楽だろうか。

もう一人の看守らしき人物がやってきた。突然、その人物が牢屋を更に大きな箱に入れ、閉じた。真っ暗だ。笑える。私の未来、妻の未来、子どもの未来、一族の未来、全てお先真っ暗ということか。どこかに運ばれているようだ。いろんな人の声が聞こえる。自転車を漕ぐ音が聞こえる。シャッターを開ける音が聞こえる。しかし私にはもう関係ない。もうすぐ私の命は尽きる。絞首台か何かに連れていかれているのだろうから。

着いた先は、広い水辺だった。決して澄んでいるわけではないが、濁りきっていることもない。この世界の綺麗な部分と汚らわしい部分が凝縮されたような、緑色。思い返せば、決して陽の当たる人生ではなかった。血眼になって食料を求め、体じゅう泥だらけになりながら、夜、しんと静まり返ったときにしか生きることを許されなかった。慣れてしまえばなんてことはない。もう生まれる前からそういう環境だった。これで当たり前。普通だった。少し大きな者たちからは目の敵にされ、見つかればこうして捕らえられ、殺される。我々は食うために殺す。しかし彼らは私たちを殺すこと自体を目的とする。我々を殺したくて殺したくてたまらないのだ。いつからだろう。こんな関係になってしまったのは。この世界のどこかに、彼らに殺されずにすむ場所はないのだろうか。たとえ私たちがコソコソと生きていても、とくに気にしない。殺しもしなければ、何かを恵むでもない。互いに何もしない関係。どこかにありはしないだろうか。

いよいよ、私の死刑が始まる。覚悟はしていたが、どうしてか気持ちがざわつく。やはり、生きたい。死にたくない。生きることを諦めたくない。気持ちよりも先に、体が抵抗した。牢屋ごと少しずつ水に沈んでいく。私は牢屋の天井にしがみつきながら、必死でもがく。息が出来ないから苦しいのか、もがきすぎて苦しいのか。それの連続。腹が裂けそうになるのをこらえながら、息ができる場所を探す。ここまで懸命に生きたいと全身が叫ぶのは初めてだった。叫んだところで、これ以上生きられない。それでも関係ない。腕が、脚が、毛が、皮膚が、血管が、内臓が、筋肉が。割れんばかりに大声で叫んでいる。頭の中で反響し、脳が沸騰する。自分自身が心臓の鼓動と化している。何も見えない。何も聞こえない。それでも、私は―――





「月に寄せて」を聞きながら、彼のその後について考えていた。話によると、ぱたりと動かなくなり、そのままゆらゆらと流れていったらしい。徐々に弱々しくなることはなかったようだ。魂の抜け殻となった肉体はどこへ向かうのか。魂の行きつく先はどこ。私は彼の死に立ち会うことはできなかった。無責任だと言われれば、否定はできない。彼が私の故郷で生まれていれば、殺される必要は皆無であった。「生まれた場所」の呪いか運命か。ひとりひとりに一生付きまとう、それ。

2019年8月27日火曜日

暑さをしのぐ時、それはチャクラが開かれる時だ!

もう朝晩は涼しくなってきたね。
でも、みつばちくんたちのお世話をした後はサウナ状態だよ、、😭😭😭
そりゃあ、こんな感じだよねえ、、、、




そんな時、みんなはどうやって暑さをコントロールしてる??
ふんふん、、、クーラーを入れたりね!はでぴの作ったくばのうちわとかね!
あ〜そうめんとかね!

さあ〜て今回ご紹介するのはこちら!
石垣のパイナップル(冷凍)です!!!!

なんとこちらですね、頭に乗せると、冷気と甘い悟りの香りがするのです。!
ほら、ほらほら。

なんか、なんかキてるでしょ。


しかもですな〜パイナップルだけん、チャクラ開けばあと食べられる。
そうめんのようにお腹を満たし、ラムネのように喉を潤す、、、、
こんなにも需要に沿った供給が、これまでにあったでしょうか、、、はあ。日本にパイナップルがあってよかった。。。しかもそれが夏に食べられてよかった。。。

でもさ、やっぱ、冷凍させとるから、ちょっと待たな、ガッチガチなんですわ。
そこはbe carefulね








[電子版特別特典]
ぼりーがどれだけパインを待ちわびていたかわかるこの写真。





パインが口に入る前から、もう開いている。。。
さすがや、、、、

[追記]

はでぴ、おかえり!

チーム・ボリメットだもん

8/22海に行きました。


ドライバー・もんちは、この前のさかみずはまで、初めて出会いました。
ピースをしているのが、もんちです。



もんちは、なんでめっちゃなんかいろいろ言われるんだろうと思っていました。
だけど、一緒に海に行ったら、その理由がわかりました。
その理由はたくさんあるから、説明するのはちょっと難しいです。
話したら、伝えやすいけど、ここでは、文字だけで伝えないといけないから、今度みんなに会ったときに話します。でも、このもんちのすごさは、もう、わたしのノープランか、いや、それ以上にすごいんだよ、ということです。

最初に行こうとしていた所は、海シーズン最高サマバケわっしょいの期間は泳いだらだめだと書いてありました。めっちゃ頑張って登って降りた崖の先に、その情報を得ました。悲しい、、、まだ若者と思っていた身体は、よぼよぼになっていて、ひーはー言いながら、また、登って降りました。たくさん身体を動かして、若者に戻らないといけないと思いました。

その次にやっと着きました。草バーバーの道から、急に石畳が見えました。なんか、すごい地位の人も、その石畳を踏んだらしいです。すごい地位は感じれなかったけど、あんぜんに歩けました。

現地でウミレクを受けました。
ウミレクを受けたふっきーと一緒に来たかったので、次は一緒に行きたいです。
初めてフィン を借りて、ハンターについていくことができました。私はふかふかしているだけだったけど、でも、顔水につけてるのに、!息できてるー!ってなって、足の動きは歩いているだけなのに泳げてる!ってなりました。フィン をつけた足は、ハウルの動く城のソフィーがハウルと一緒に空を歩いている感じだ!と思いました。

ハンターたちはいっぱいご飯を用意してくれました。
ありがとう〜




スーパーリッチシャインランチ!!


終わった後は温泉に行ったよ〜
そしてその後はアイスも食べたんだよ〜もう最高のデートコースだね!

それでさ、もう、海も入って、お風呂も入って、気持ちいいくなって、帰るだけや〜って思ってたら、豪雨よ。ゲリラライブすなて!マヒチ先生のお家に初めてお邪魔したときの霧を思い出したよ、、、、雨雲レーダーが、ちょーど山口のそのところだけ緑色だったんよ!もうamazing whether......so muchよ

それで、海の道具をプールにつけてー、お家に帰ったら、パーリナイオブフィッシュ
たこはたこ焼きして、他のは煮たり焼いたり、、、シェフあるぱかの味付けとかたこ焼き職人・とめのまんまるたこ焼きとか、刻みびとのきぞくとか、タコカッターボリリアンとか、超人たちとごはん!

あ、でもね、たこは、そのまま湯がいたほうが好きだったよ、、、
ただね、たこ焼きの楽しさには勝てなかったんだ、、だって超人たちとのディナーだよ!

また海行きたいな
あと、私も超人になれるようにキッチン使わなな、、、

みんなも、あともーちょっとのサマバケ楽しんでね!


2019年8月18日日曜日

ピュシスの贈り物ーあるいは簡単なことを難しそうに書くことー

秘密の贈り物
この物語は秘密を打ち明けることから全てが始まる。テラメーヌにアリシーへの秘めた想いを伝えるイポリット。エノーヌにイポリットへの想いを伝えるフェードル。秘密の告白が贈り物であることについてはいくつかの方面から指摘がある。
精神分析学者の成田善弘によると、子どもが母親に贈る最初の贈り物が大便である。大便は、自己の内部にある大事なもの、保持したいものであり、保持の緊張が高まると同時に排出の欲求が高まる。秘密がそれと同じ構造をもつことは容易に想像できる。秘密は保持したいからこそ秘密としての意味を持つ。しかし、最後はそれを共有し、自他の境界、もしくは自他の関係の質を引き直すことも、秘密に含まれる意味である。秘密とは、このような保持しつつ与える矛盾を持った性質のものだ。人類学者のアネットワイナーやゴドリエはこの「保持しつつ与えること」を贈与の定式に据えようとした。秘密の贈り物とその矛盾。この矛盾はテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンされるように簡単に保持され時間を進めることはない。秘密の贈り物は贈った方も贈られた方も苦しみ、その苦しみは解消されることがない。秘密の贈り物の構造について、様々な事物に当てはめて考えを巡らすことは楽しいかもしれない。けれど、広大な海を前に、苦しみながら自らの小さな秘密を打ち明けるイポリットとフェードルをみて、やはりその苦しみについて考えないわけにはいかない。
 成田は「分泌物」と「秘密」との関連を指摘する。secreteという言葉には「分泌する」という意味と「秘密にする」という意味がある。秘密が彼らを苦しませるがゆえに、いつもそれは少しずつ分泌されるsecreteである。テラメーヌもエノーヌもその分泌されたsecreteを見逃さない。秘密の発見と共有。その小さな秘密は物語の中で育てられ、大きな破滅を招く。しかし、それははじめ、ただ少し、苦しみながら分泌されたものだったはずだ。(贋の侍女ではこの分泌は楽しげにおこなわれる。)この分泌に「個人の意図」のようなものが入り込む余地はあっただろうか。
カオスと分泌されたピュシス
 王の訃報はまさしく、ドゥルーズのいう超コード化された世界からの解放だ。その解放がもたらしたのはカオス(無秩序)だったのか。錯綜する報告と思惑の中、むしろ顔を出したのはピュシス(生きた自然の秩序)でなかっただろうか(もちろんドゥルーズはその後に脱コード化の世界を見たのだが)。否応もなく分泌される秘密。製られた言葉と過去の秩序がすぎた後、逆照射されたカオスとしてのフェードルは、義務と情熱をきれいに解きほぐすことができない。その責は全てフェードルの個に帰されるべく存在するにも関わらず、演じられている秘密の分泌はピュシスを想起させる。波の音響と、夕焼けのホリゾンと、海の大黒幕と、どこまでも広がる砂の舞台に我々はピュシスの中にいることを実感する。個はその感覚に促されて小さな光を放つ。それは、分泌された秘密の贈り物である。
毒の贈り物
 贈り物はまた危険な毒を含む。劇中の付き人や召使いは秘密を運ぶ役割を担う。しかしその秘密は毒である。迂闊にもトリブラン秘密を打ち明けてしまうフロンタン、またはアルルカンに秘密を打ち明けてしまうトリブラン。召使いたちは自らも危険を冒しながらその毒を運ぶことで生き抜いていこうとする。そこにスリルがある。一方で、エノーヌはフェードルの秘密という毒を浄化しようと躍起になり自らがその毒に侵されて死んでしまう。ところでその毒はどこから来たのだろうか。その毒は、フェードルから来たものだったろうか。本当に?フェードルもまた誰かからその毒を贈られたのではなかったろうか。
死を与えること
 フェードルとエノーヌはそれぞれの単独的な関係において倫理を乗り越える。神との単独な関係において息子のイサクを殺そうとするアブラハムの行為を、キルケーゴールは「倫理的なものの目的論的停止」と呼んだ。単独性のつながりは、秘密に含まれる毒を時には全身に、また他者にまで広げてしまう。デリダは、その単独性の関係と倫理の矛盾の瞬間にとどまり、その矛盾に耐え抜くことを要求する。しかしエノーヌは、その矛盾を止めるのではなくレイヤーを遡る。エノーヌはフェードルから秘密という毒の贈り物を受け取った。しかし、エノーヌに死を与えたのはフェードルではない。その逆で、エノーヌはフェードルの毒の贈り物に対して死で報いた。エノーヌはその秘密の毒で死んだのではなく、自ら死をフェードルに与えたのである。死は、エノーヌからフェードルに対してできる最後の贈り物だった。それは、ピュシスから発した毒をコードの中で運びながら、カオスでも超コード化された世界でもなく、もう一度ピュシスに帰すための死ではないだろうか。エノーヌはフェードルとの単独性の関係と、倫理との矛盾を、ピュシスまでレイヤーを遡ることで解消しようとする。エノーヌの死はフェードルの秘密の贈与への反対贈与である。
王の帰還
 王の帰還という本来幸福な出来事が、カオスと化しつつあった世界を再び超コード化し、もはやピュシスを思い出すことのない悲劇を生み出す。そしてフェードルは永遠にカオスの中へと忘却される。その悲劇にもし微かな祝福があるとするならば、フェードルの愛するイポリットの死かもしれない。
 イポリットの死は、劇中ではテゼーの愛憎とネプチューンの力によるものとなっていた。それは、テゼーとピュシスからのフェードルへの贈り物とも言える(かもしれないが、もしそうだとしたら、本当に悲劇的なのはイポリットだ)。
最終的に、フェードルは愛するエノーヌとイポリットの後を追う。その場所は本当はカオスではなくピュシスだったのではないだろうか。だとしたらこの話はやはりフェードルの悲劇ではない。フェードルの死をカオスの中に観てしまった私の悲劇である。
秘密の毒はどこから贈られたか
 では、毒はどこから来たのだろうか。フェードルの与えられた毒は、ピュシスに発する情欲であると私は思う。しかし、その毒は初めから毒としてあったのではない。コード化された後の世界で、情欲は毒と化し、カオスの中に逆照射された。その逆照射そのものの罪を一身に背負ったのがフェードルだったのではないだろうか。フェードルが背負った罪は、コード化された世界を逆照射してカオスの中に見てしまう私たち自身の罪である。
しかし、それも全て、やはりピュシスの中にある。この逆水浜という舞台は、全てが自然の無秩序な秩序の中にあることを指し示していた。だからこそ、エノーヌやフェードルが海というピュシスに還っていくその姿は、暗闇の浜で私たちの目に焼き付いたのだろう。

2019年8月17日土曜日

フェードルはなぜ野外で演じられなければならなかったのか

海の潮は役者たちの足元までせまり、波音が彼らの台詞をかき消そうとする。うずめ劇場の野外演劇「フェードル」の若松逆水浜海岸特設会場における公演は、2019年8月11日と12日、日本列島がふたつの台風に挟まれた、その空隙の2日間に開催された。


フェードルは、ギリシア神話を素材に、17世紀にフランスの劇作家ジャン・ラシーヌが焼き直した悲劇である。


私が、うずめ劇場のペーター・ゲスナーと松尾容子から野外公演の話を持ちかけられたときに、長い歴史のなかで洗練されてきたこの古典劇を、なぜわざわざ音響や設備が十分に準備できない野外でおこなうのか、その意図をすぐに理解する事ができなかった。

すでに私は、昨年のうずめ劇場の「フェードル」の東京公演での大成功は聞いていた。高度で複雑な言葉の応酬、二転三転する筋書きと登場人物の心の動き、多くの評論は、ペーターのそうした演出と役者たちの演技を褒めていた。そんな繊細に構成された舞台芝居を、どうやって野外でおこなうのだろうか。

もしかすると、この申し出は、状況のミスマッチを楽しむための仕掛けなのだろうか、私にもとめられているのは数奇な野趣なのだろうか。話を聞いた当初は、正直なところ、そんな気持ちだった。


しかし、ペーターははっきりとこう言った。「フェードルは、まさにここで演じられなければならない芝居なのですよ」


響灘をのぞむ逆水の海岸には、夏の強烈な日差しが降り注ぎ、台風の余波で黒い海はざわめき、想定していた以上の満ち潮に舞台に予定していた浜は削り取られ、制作のために前日から浜での生活を始めた私たちは、設営の準備のためよりも、ひたすら強烈な夏の自然そのものに体力を奪われていった。ギリシア神話に登場する自然の荒ぶる神々。むき出しの海岸には、海の神ネプチューン(ポセイドン)の情念が、容赦のない熱波となって地上に降り注ぎ、私たちの身体を苛んでいく。


やがて日が落ち、昼間の灼熱の名残を伝える焼けた砂浜に灯がともり、芝居が始まる。ここからは言葉の時間だ。人間たちが浜に登場する。契約と倫理に縛られた、誇り高く、嫉妬深い、人間たちの物語が始まった。


おりしも私は今年の春から学生たちとともに、ローマ法学者、木庭顕が著した「誰のために法は生まれた」を読んでいた。この本を通して、ローマ時代の喜劇作家プラウトゥスの「カシーナ」「ルデンス」、古代ギリシアの悲劇詩人ソフォクレスの「アンティゴネー」「フィロクテーテース」の4つの戯曲を知った。

戯曲の解釈を元に、そこにあらわれる法の概念についての木庭の目が覚めるような分析によって「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基である」という視点が明らかにされていく。それは、今回のうずめ劇場が今回上演した、悲劇「フェードル」と喜劇「贋の侍女」を理解する上で、非常に役立った。


ラシーヌの戯曲によるフェードルの初演は、1677年1月1日。時は大航海時代、近世の幕開けである。見知らぬ人々と交易をおこなうために法と契約が整備され、相続権や王位継承権のために、貴族の間に結婚が「発明」された時代である。こうしてギリシア時代の恋の情熱は、教会が認める結婚という契約制度に変わった。

別の戯曲には、フェードルはテゼーと結婚していたのではなく、婚約していただけだという解釈があるという。もしそうならば、私たちのフェードルの行動に対する視線は、ずいぶんと違ったものになるだろう。しかしラシーヌはそうは描かなかった。フェードルが提示する葛藤は、愛や情熱の苦しみではなく、裏切りと不倫の苦しみであり、嫉妬の情念は、罪という重荷に置き換えられていく。


しかし、ペーターの若松海岸での野外芝居の演出はさらにその先をいく。彼はラシーヌが提示したその近世人フェードルの苦しみを、再びあのギリシア時代の自然に解放したのだ。それこそが彼がこの芝居を海岸でおこなう意味であり、たくらみだったのだろう。ペーターは、ほかのどの舞台とも異なるフェードルの解釈を、この一度限りの芝居に忍び込ませたのだ。

役者の足元まで迫る黒い海。ギリシア神話の神々は、フェードルや登場人物の激情を受け入れ、その悲劇的な運命に対して狂気を解き放ったのである。海が荒ぶれば荒ぶるほど言葉は無力となり、圧倒的な暴力と理不尽によって人間は翻弄される。


それはすでに悲劇ではない。悲劇は人間が生み出すものだ。神々ではなく人間であることそのものが悲劇なのだ。この海岸での芝居は反語的に私たちにひとつの真実を語ってくれた。それは、背徳や葛藤のなかにこそ人間性があるという真実である。


最後に1つだけ蛇足を。フェードルはなぜ死を選んだのか。その答えは、彼女が神ではなく人間だったからである。

情熱と義務のあいだ

ギリシャの神々は人に情熱を与えた。ミノスとパジファエの娘、そしてミノタウロスの姉であるフェードルは、その情熱と欲望にのみ苦悩したのではないだろうか。
ところが数千年の時を経て、ネプチューンの名を唱えながらそこに唯一神の面影を観る男によって描かれたフェードルは、情熱と義務とのはざまで苦悩する。
義務とは何か。


エノーヌはしきりにその立場を説く。妻として貞淑であれ、母として子を守り、妃として妨害するものを排除せよと。
エノーヌは、宮廷に仕えるあまたの女性の中でも頂点である妃の側近という己の立場から、妃を守り、国を治めるために策を巡らす。


多少の詭弁にひるむことなかれ。
全てはあなたのお立場を守らんがため。
お立場を守ることがあなたの命をお救いする。
そう信じて疑わない。




それが真実であるならば、なぜエノーヌは捨てられた。
立場とは何か。



それは人が人の世の掟として決めたもの。
それでは、神が人に与えた義務とは何か。


恋という情熱はときに人の手に負えぬほど激しく、人の心を覆い尽くし、神の名を呼びながらその神が示す道から遠のかせる。
恋をしてその人を愛おしく思うのならば、そのとき神が示す義務は愛しい人の幸福を願い、それに尽くすことだろう。


イポリットは恋をした。
誠実な彼は、愛しい人の自由と幸福を願った。ところがそこに魔が差す。権力を手に入れる機会が現れる。愛しい人とともに権力をこの手につかめるかもしれない。
愛しい人アリシーは、イポリットに恋をした。そして自由と権力と美しく誠実な恋人を手に入れることを願った。




イポリットに恋をしたフェードルは、その強すぎる情熱に戸惑い、自分の幸福に怯え、愛しい人の幸福におののいた。不安に駆られる心は、エノーヌにそそのかされ、自らが仕掛けた罠に絡め取られ傷が深くなっていく。




情熱と義務の対立は、ネプチューンの神が思し召したことではない。
ただ人がそう解釈し、信じ、その身を投じたにすぎない。