2019年8月18日日曜日

ピュシスの贈り物ーあるいは簡単なことを難しそうに書くことー

秘密の贈り物
この物語は秘密を打ち明けることから全てが始まる。テラメーヌにアリシーへの秘めた想いを伝えるイポリット。エノーヌにイポリットへの想いを伝えるフェードル。秘密の告白が贈り物であることについてはいくつかの方面から指摘がある。
精神分析学者の成田善弘によると、子どもが母親に贈る最初の贈り物が大便である。大便は、自己の内部にある大事なもの、保持したいものであり、保持の緊張が高まると同時に排出の欲求が高まる。秘密がそれと同じ構造をもつことは容易に想像できる。秘密は保持したいからこそ秘密としての意味を持つ。しかし、最後はそれを共有し、自他の境界、もしくは自他の関係の質を引き直すことも、秘密に含まれる意味である。秘密とは、このような保持しつつ与える矛盾を持った性質のものだ。人類学者のアネットワイナーやゴドリエはこの「保持しつつ与えること」を贈与の定式に据えようとした。秘密の贈り物とその矛盾。この矛盾はテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンされるように簡単に保持され時間を進めることはない。秘密の贈り物は贈った方も贈られた方も苦しみ、その苦しみは解消されることがない。秘密の贈り物の構造について、様々な事物に当てはめて考えを巡らすことは楽しいかもしれない。けれど、広大な海を前に、苦しみながら自らの小さな秘密を打ち明けるイポリットとフェードルをみて、やはりその苦しみについて考えないわけにはいかない。
 成田は「分泌物」と「秘密」との関連を指摘する。secreteという言葉には「分泌する」という意味と「秘密にする」という意味がある。秘密が彼らを苦しませるがゆえに、いつもそれは少しずつ分泌されるsecreteである。テラメーヌもエノーヌもその分泌されたsecreteを見逃さない。秘密の発見と共有。その小さな秘密は物語の中で育てられ、大きな破滅を招く。しかし、それははじめ、ただ少し、苦しみながら分泌されたものだったはずだ。(贋の侍女ではこの分泌は楽しげにおこなわれる。)この分泌に「個人の意図」のようなものが入り込む余地はあっただろうか。
カオスと分泌されたピュシス
 王の訃報はまさしく、ドゥルーズのいう超コード化された世界からの解放だ。その解放がもたらしたのはカオス(無秩序)だったのか。錯綜する報告と思惑の中、むしろ顔を出したのはピュシス(生きた自然の秩序)でなかっただろうか(もちろんドゥルーズはその後に脱コード化の世界を見たのだが)。否応もなく分泌される秘密。製られた言葉と過去の秩序がすぎた後、逆照射されたカオスとしてのフェードルは、義務と情熱をきれいに解きほぐすことができない。その責は全てフェードルの個に帰されるべく存在するにも関わらず、演じられている秘密の分泌はピュシスを想起させる。波の音響と、夕焼けのホリゾンと、海の大黒幕と、どこまでも広がる砂の舞台に我々はピュシスの中にいることを実感する。個はその感覚に促されて小さな光を放つ。それは、分泌された秘密の贈り物である。
毒の贈り物
 贈り物はまた危険な毒を含む。劇中の付き人や召使いは秘密を運ぶ役割を担う。しかしその秘密は毒である。迂闊にもトリブラン秘密を打ち明けてしまうフロンタン、またはアルルカンに秘密を打ち明けてしまうトリブラン。召使いたちは自らも危険を冒しながらその毒を運ぶことで生き抜いていこうとする。そこにスリルがある。一方で、エノーヌはフェードルの秘密という毒を浄化しようと躍起になり自らがその毒に侵されて死んでしまう。ところでその毒はどこから来たのだろうか。その毒は、フェードルから来たものだったろうか。本当に?フェードルもまた誰かからその毒を贈られたのではなかったろうか。
死を与えること
 フェードルとエノーヌはそれぞれの単独的な関係において倫理を乗り越える。神との単独な関係において息子のイサクを殺そうとするアブラハムの行為を、キルケーゴールは「倫理的なものの目的論的停止」と呼んだ。単独性のつながりは、秘密に含まれる毒を時には全身に、また他者にまで広げてしまう。デリダは、その単独性の関係と倫理の矛盾の瞬間にとどまり、その矛盾に耐え抜くことを要求する。しかしエノーヌは、その矛盾を止めるのではなくレイヤーを遡る。エノーヌはフェードルから秘密という毒の贈り物を受け取った。しかし、エノーヌに死を与えたのはフェードルではない。その逆で、エノーヌはフェードルの毒の贈り物に対して死で報いた。エノーヌはその秘密の毒で死んだのではなく、自ら死をフェードルに与えたのである。死は、エノーヌからフェードルに対してできる最後の贈り物だった。それは、ピュシスから発した毒をコードの中で運びながら、カオスでも超コード化された世界でもなく、もう一度ピュシスに帰すための死ではないだろうか。エノーヌはフェードルとの単独性の関係と、倫理との矛盾を、ピュシスまでレイヤーを遡ることで解消しようとする。エノーヌの死はフェードルの秘密の贈与への反対贈与である。
王の帰還
 王の帰還という本来幸福な出来事が、カオスと化しつつあった世界を再び超コード化し、もはやピュシスを思い出すことのない悲劇を生み出す。そしてフェードルは永遠にカオスの中へと忘却される。その悲劇にもし微かな祝福があるとするならば、フェードルの愛するイポリットの死かもしれない。
 イポリットの死は、劇中ではテゼーの愛憎とネプチューンの力によるものとなっていた。それは、テゼーとピュシスからのフェードルへの贈り物とも言える(かもしれないが、もしそうだとしたら、本当に悲劇的なのはイポリットだ)。
最終的に、フェードルは愛するエノーヌとイポリットの後を追う。その場所は本当はカオスではなくピュシスだったのではないだろうか。だとしたらこの話はやはりフェードルの悲劇ではない。フェードルの死をカオスの中に観てしまった私の悲劇である。
秘密の毒はどこから贈られたか
 では、毒はどこから来たのだろうか。フェードルの与えられた毒は、ピュシスに発する情欲であると私は思う。しかし、その毒は初めから毒としてあったのではない。コード化された後の世界で、情欲は毒と化し、カオスの中に逆照射された。その逆照射そのものの罪を一身に背負ったのがフェードルだったのではないだろうか。フェードルが背負った罪は、コード化された世界を逆照射してカオスの中に見てしまう私たち自身の罪である。
しかし、それも全て、やはりピュシスの中にある。この逆水浜という舞台は、全てが自然の無秩序な秩序の中にあることを指し示していた。だからこそ、エノーヌやフェードルが海というピュシスに還っていくその姿は、暗闇の浜で私たちの目に焼き付いたのだろう。

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