海の潮は役者たちの足元までせまり、波音が彼らの台詞をかき消そうとする。うずめ劇場の野外演劇「フェードル」の若松逆水浜海岸特設会場における公演は、2019年8月11日と12日、日本列島がふたつの台風に挟まれた、その空隙の2日間に開催された。
フェードルは、ギリシア神話を素材に、17世紀にフランスの劇作家ジャン・ラシーヌが焼き直した悲劇である。
私が、うずめ劇場のペーター・ゲスナーと松尾容子から野外公演の話を持ちかけられたときに、長い歴史のなかで洗練されてきたこの古典劇を、なぜわざわざ音響や設備が十分に準備できない野外でおこなうのか、その意図をすぐに理解する事ができなかった。
すでに私は、昨年のうずめ劇場の「フェードル」の東京公演での大成功は聞いていた。高度で複雑な言葉の応酬、二転三転する筋書きと登場人物の心の動き、多くの評論は、ペーターのそうした演出と役者たちの演技を褒めていた。そんな繊細に構成された舞台芝居を、どうやって野外でおこなうのだろうか。
もしかすると、この申し出は、状況のミスマッチを楽しむための仕掛けなのだろうか、私にもとめられているのは数奇な野趣なのだろうか。話を聞いた当初は、正直なところ、そんな気持ちだった。
しかし、ペーターははっきりとこう言った。「フェードルは、まさにここで演じられなければならない芝居なのですよ」
響灘をのぞむ逆水の海岸には、夏の強烈な日差しが降り注ぎ、台風の余波で黒い海はざわめき、想定していた以上の満ち潮に舞台に予定していた浜は削り取られ、制作のために前日から浜での生活を始めた私たちは、設営の準備のためよりも、ひたすら強烈な夏の自然そのものに体力を奪われていった。ギリシア神話に登場する自然の荒ぶる神々。むき出しの海岸には、海の神ネプチューン(ポセイドン)の情念が、容赦のない熱波となって地上に降り注ぎ、私たちの身体を苛んでいく。
やがて日が落ち、昼間の灼熱の名残を伝える焼けた砂浜に灯がともり、芝居が始まる。ここからは言葉の時間だ。人間たちが浜に登場する。契約と倫理に縛られた、誇り高く、嫉妬深い、人間たちの物語が始まった。
おりしも私は今年の春から学生たちとともに、ローマ法学者、木庭顕が著した「誰のために法は生まれた」を読んでいた。この本を通して、ローマ時代の喜劇作家プラウトゥスの「カシーナ」「ルデンス」、古代ギリシアの悲劇詩人ソフォクレスの「アンティゴネー」「フィロクテーテース」の4つの戯曲を知った。
戯曲の解釈を元に、そこにあらわれる法の概念についての木庭の目が覚めるような分析によって「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基である」という視点が明らかにされていく。それは、今回のうずめ劇場が今回上演した、悲劇「フェードル」と喜劇「贋の侍女」を理解する上で、非常に役立った。
ラシーヌの戯曲によるフェードルの初演は、1677年1月1日。時は大航海時代、近世の幕開けである。見知らぬ人々と交易をおこなうために法と契約が整備され、相続権や王位継承権のために、貴族の間に結婚が「発明」された時代である。こうしてギリシア時代の恋の情熱は、教会が認める結婚という契約制度に変わった。
別の戯曲には、フェードルはテゼーと結婚していたのではなく、婚約していただけだという解釈があるという。もしそうならば、私たちのフェードルの行動に対する視線は、ずいぶんと違ったものになるだろう。しかしラシーヌはそうは描かなかった。フェードルが提示する葛藤は、愛や情熱の苦しみではなく、裏切りと不倫の苦しみであり、嫉妬の情念は、罪という重荷に置き換えられていく。
しかし、ペーターの若松海岸での野外芝居の演出はさらにその先をいく。彼はラシーヌが提示したその近世人フェードルの苦しみを、再びあのギリシア時代の自然に解放したのだ。それこそが彼がこの芝居を海岸でおこなう意味であり、たくらみだったのだろう。ペーターは、ほかのどの舞台とも異なるフェードルの解釈を、この一度限りの芝居に忍び込ませたのだ。
役者の足元まで迫る黒い海。ギリシア神話の神々は、フェードルや登場人物の激情を受け入れ、その悲劇的な運命に対して狂気を解き放ったのである。海が荒ぶれば荒ぶるほど言葉は無力となり、圧倒的な暴力と理不尽によって人間は翻弄される。
それはすでに悲劇ではない。悲劇は人間が生み出すものだ。神々ではなく人間であることそのものが悲劇なのだ。この海岸での芝居は反語的に私たちにひとつの真実を語ってくれた。それは、背徳や葛藤のなかにこそ人間性があるという真実である。
最後に1つだけ蛇足を。フェードルはなぜ死を選んだのか。その答えは、彼女が神ではなく人間だったからである。
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