2017年4月27日木曜日

鯨飲鯨食の一週間

初めての受け持った講義がフィールドワーク論で、運のいい?ことに同じ春から北方シネマが始まった。ドキュメンタリー映画はフィールドワークの授業にはもってこいの題材だと思う。おかげで、フィールドワークについて自分の考えをまとめるいい機会となっている。
今回の鯨飲鯨食ツアーは野研で行くフィールドワークの中では比較的予定の定められたものだったと思う(ツアーだし)。とはいえ、社会科見学や本物の旅行ツアーに比べれば全く臨機応変さが違う。ある程度の方針を持ちながらも、やっぱりフィールドワークはアンテナを伸ばし可変的でなければ面白くない。計画と無計画の間?野研にきてから当たり前の「やり方」になってしまっていたけど、改めてそれがなんなのか考えている。以下、遅くなりましたが報告です。

柳川からカシラキゾクキウイカーと合流し、ちゃんぽん食べて、とっちゃんに車を預けて、まずは水玉とハゼロウ見物へ。実は水玉もハゼロウも初めての見学だ。改めてみやまの底力を知る。
いつもカシラの家でガボガボと呑んでいる玉水だが、地元用に少量しか生産してないそうだ。
薄暗い蔵の中には、たくさんの瓶がずらりと棚の中に並んでいる。槽、麹室、酒母室・・・ひっそりとしているが、麹のいい匂いに包まれる。二日目、三日目に鹿島、福田をまわるが、どの酒蔵も少しずつ雰囲気が違う。玉水では現役で使われている木造の槽が印象的だった(のちに福田酒造の酒造博物館で使われなくなって展示された槽をみることになる)。
荒木製蝋は日本で三つしかない木蝋製造所のうちの一つ。なのに雰囲気は町工場みたいで、職人さんたちは黙々と作業していた(元ヤンの感じも出ていて、それがまた職人ぽさを生んでいる気がする)。謎の枡やら丼や機械がたくさんあり、いちいち何に使うのかがわからない。あのハゼの実がロウになるとは・・・どうやって思いつくのか。江戸時代にはすでに作っていたという。
時間おしおしでムツゴロウランドへ。ムツゴロウランドって名前すごい。
くもであみは何ともイージーな漁だった。もちろん、このやぐらを建てるのが大変なのだろうけど。カシラ、アルパカ、イカ、トメと網をあげるもエビだらけ。エビが商店街のガラガラクジで白玉が出た時にもらえるティッシュに見えてくる。そしてルルブが・・・えつを!商品券ゲット!みたいな気分か。その後も海外旅行をねらい続けるもティッシュを連発する皆の中で唯一ルルブは商品券をもう一度当てる。ルルブは何かがきてるようだった。
インストラクター(?)のおじさんが子供のころはくもであみがずらっと並んでいたそうだ。いい場所は取り合いで、台風でやぐらが流されてもすぐに次のやぐらがボコボコ建っていたという。夕飯のおかずとりはもっぱら子供の仕事で、学校帰りは干潟をぐねぐね歩きながら帰った、などいろいろ話してくれた。
まだまだエビがとれそうで名残惜しかったが(結局このエビは最後の日まで食料となる)、切り上げて、風呂に入ってカシラの実家へ。カシラの実家を訪れるのは初めてだ。噂で聞いていたにもかかわらず甲冑に驚く。ミツバチは夜で飛んでいなかったけど、公民館(といっても古民家のようだった)の床下の巣を見ることができた。もどかしい場所に巣を作っていて、何とかならないものか・・・。そうこうしているうちに、カシラの母がどんどん料理を作ってくれた。
カシラの家に戻ると車のヘッドライトが交換されていた。とっちゃんありがとう。
散々に呑んで次の日、これでもか、という感じで鹿島の酒蔵へ向かう。
鹿島は1日遊べそうな街だったが、駆け足でみていく。ぞろぞろと古民家や酒造の間を抜け、うなぎを食す。途中、地元のおじいさんが話しかけてくれた。この辺も昔は子供がたくさん祭りに参加して・・・といったこと感じのことを話してくれた。そして、「みぎさんへ◯※∂£▽・・・」「え??」「むこうのとおりのみぎさんへ◯※∂£▽・・・」「へえ〜・・・」全くわからない。ああそうか、ここは違う国。
鹿島を抜けて、波佐見のショッピングモール的なところ(集落が丸ごとショッピングモールに!)でご飯を食べ、林道を抜け(なぜか)、タバちゃんの家をひやかし(棚田はなかなかのたなだった)、蜂の巣箱用の底板をもらって(まさかの)、ようやく鯨飲鯨食の会に合流した時はすでに州澤さんのお話が始まっていた。
鯨類研究室の石川さんのお話は、「月とマッコウクジラ」という題で、どんなロマンチックな話かと思ったら、なんともキナ臭い話だった。鯨は何といっても世界的な「資源」で、鯨をめぐる出来事には常に政治的な思惑とセットになっていることが歴史的な出来事とともに丁寧に語られた。この間のドジョウの話といい、一つの局所的な事象から大きなストーリーを見渡す(いや、それでもドジョウは局所的か)。ミクロの視点で細かい研究をしつつ、マクロに視野を見渡す。そういう話は面白い。
講話が終わり、本番の鯨飲鯨食に取り掛かる。と、食事を初めてすぐ、向かいの整形外科医のご夫婦と宿泊の話に。「今日はどこに泊まるの?」「はい、テントで!」「いいねえ。でも、このへんテント張る場所あるのかしら」「一応はれそうな場所があると洲澤さんからきいてます。」「うちでよかったら泊まってもいいんだけど・・・」「え・・・!」
控えめな感じの申し出と、場所が少し離れていたこともあって、どうしようかと最初は戸惑ったけれど、家から見た島の写真まで見せていただき(これは見ておかなければという感じの立地だった)みんなでお世話になることになった。ああ、このパターンは・・・と、これまで野研での宿泊先の思い出がよみがえる。北海道は鷹栖の「おじさん」宅に森の幼稚園「ピッパラ」、おもちゃ屋の竹川さん宅。長野のたてしなに、風の森、安曇野のせつ宅。鹿児島のありさん・・・。ログハウス的なものを建てる人々には何か共通点がある。何というか、「気づいたら建ててしまっていた」という感じなのだ。そして、野研はよくそこに「つかまる」。その夫婦も、そもそもテントで泊まるような人しか、その家には泊めないことにしているのだという。

ロンドンに現地集合して一家でリバプールへ行くほど好きだというビートルズの曲が流れるヴォルヴォで、集落をどんどん通り過ぎ、山の中へ入っていく。一体どこへ・・・灯りもない道で突然脇道へ入り(そこは立ち入り禁止になっていた)、車は海側へ急降下し、到着して玄関に入ったメンバーから驚きの声。鹿の剥製だ。それからはひたすら家の中やら庭やらを暗い中案内してもらう。今回も完全に「つかまって」しまった・・・!そして、ここからが本当の鯨飲鯨食の会だったのだ。思えば、三日間でこの時がもっとも鯨飲鯨食の会っぽかった。ポールが好きなイカや、長野出身ヤギ専門のハンゾーがいないのが全くもったいない(夫の方はヤギの刺身が好物だそう)。すでにみんながいろいろ書いているけれど、僕的には24時を過ぎてから元老院が出てきたのが衝撃だった。
鹿島の酒蔵から始まり、波佐見と鯨飲鯨食、整形外科医の秘密基地とこれらがすべて同じ日に起こったこととは思えない。しかも、鹿島で始まり最後は鹿島出身(だった!)の整形外科医の秘密基地に泊まることになるとは。
次の日は墓石のあるカフェ的なとこでカレーを食べて、オーナーの夫の石像彫刻家の坂本さんを拾い(坂本さんに拾われ、か)、生月島の「島の館」へ。
平戸には一度だけ五島に渡るために行ったことがある。小学校を卒業した時にひとり旅をしたのだった。その時は、平戸大橋を渡って、城下町の民宿で泊まったような気がする。しかし、すでに五島に渡る船は廃船になっていて、結局佐世保まで引き返したのを覚えている。その時は全く回ることができなかった平戸。今回は生月に宮浦と端っこまで探索することができた。
島の館は思った以上に内容の多い博物館だった。館長の方のお話も興味深い。クジラの背に乗って、クジラの鼻に穴を開ける「羽差し」の本当の役割はなんなのか、形状から推測する銛の使い方の違い、肉を食べる地域食べない地域、共同体でクジラをとるのか、企業体でクジラをとるのか、そしてそれによる船の模様の違い、などなど。時間が限られていたのがやはり惜しい。大勢での「ツアー」は予定が一から十まで決められてしまいなかなか歯がゆい思いもする。これだけクジラに詳しい人がいたから聞けた話もあるのだけど。生月はまたゆっくり少人数で周りたい。潜りもかねて。
島の館を出て、キゾクカーと別れ、最西端の酒蔵を見学し、民宿で刺身と酒蔵の酒をご馳走になった。酒の席では坂本さんが、ナガランドにはまった奥さんの話をしてくれた。坂巻さんが自慢の大型スマートフォンでナガランドを検索してくれたのだが、出てきたナガランド人の写真は坂本さんにそっくりだった。
その日はテントに泊まり、翌朝民宿に泊まった坂本さんと合流して(この時最後のエビを食べた)橋でつながる最西端、宮之浦を目指す。洲澤さんたちはそこまで行ってすぐに帰ってしまったが、僕たちは漁港を散策。海はベタベタで全く波がない。釣り人がたくさんいたが、すぐにも飛び込みたい気持ちだった。
その後、志々岐神社に導かれるようにたどり着き、ムクロジの実をを拾っていると志々岐山の登山口に着いてしまった。そこにあったのは見覚えのある緑のワゴン車!坂本さんだ!しかもちょうど降りてきたところで、そろそろ出発しようかというところだった。最初の予定では志々岐山に登るつもりはなかったのだけど、坂本さんが「すぐ登れる」というので登ることに。
志々岐山は小文字山くらいの標高だったが、崖にたくさんロープが渡してあり、楽しんで登ることができた。信仰の対象だったこともあり、ところどころに何か怖ろしいことが書いてある看板があるもスルーして登る。
山頂は宮之浦から見るとロケットのようになっていて切り立っているが、そのおかげで絶景になっていた。ひょいひょいと怖ろしい崖にたつ坂巻さんは仙人のようだった。
志々岐山から降り、急いで若宮に向かう。疲れた僕を気遣って坂巻さんが途中で運転を交代してくれたのだが、そのおかげで?18時半には若宮につくことができた。若宮ではよしこさんが冷凍庫にあった謎の肉(シカ?ブタ?)でもてなしてくれた。いぼりやハンゾーが稲作のことをかぶりつきで聞いている間、88歳の新規組合員のかたとお話をした。若い時にパラグアイに行ったというおじいさん。85の時に若宮の家をついで、移住してきた。最近は竹炭を作っていて、興味ある人はきてみないかとのこと。家に一人で住んでいて、寂しいのでみんな遊びに来ていいよ、酒もあるし、とのことだった。若宮は名残惜しかったが、疲れていたことと次の日の授業のこともあってキゾクカーで家に帰る。
次の日、やっと通常営業に戻ったと思いきや、授業前に分蜂の知らせを受ける!そうか、今はそういう時期だった。授業を中断して分蜂をみにいくと、実はW分蜂だったということで、テラスイボリモコツルコが必死に蜂を運んでいた。
授業後に蜂を眺め、夜は大學堂でオルガン搬入、坂巻さんと最後の酒を交わし・・・と思ったらいつのまにか大學堂で呑み明かすことになって、ツルコ坂巻アルパカというなかなかないメンバーで呑んだ。坂巻さんが酒をどんどんついで、ホリさんが持って来た古酒は結局三本とも飲みきってしまった。翌朝、坂巻さんに旦過市場と大学を案内し、坂巻さんはテイクアウト大學丼を持って北海道へと帰って行った。後半は坂巻さん率の高い一週間だった(坂巻さんはひょうひょうとして裏表ない感じの面白いヒゲの方であった)。
さらにこの後の金曜には北方シネマもあり、内容の濃い一週間だった。
ツアー部分もよかったのだけど、予定の決まっていなかった宿泊や平戸からの帰りの一日の方が、スリリングで、決められた場所を観るのとは違う楽しさがある。誰も先導していないのにも関わらず、「はまった」時のフィールドワークは何かに導かれていくようだ。この感覚がフィールドワークの醍醐味かもしれない。

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