2019年7月2日火曜日

こがね② 踊る童子

先ほどの女性歌手のように、演者ひとりひとりについてこと細かくかきたいところではあるが(こがね① 人間譜面台参照)、それをすると膨大な量になるので、こちらでは印象に残ったことだけについてかこうと思う。
 演奏が一通り終わり、しばしの準備時間となった。固い椅子に座っていた俺の左横を、ピンク色でチェック柄の肩出しワンピースを着た、ショートカットの女の子が行ったり来たりしている。歩くのに疲れた男の子とその父親が俺の右前に座った。
 すると、俺の右横から、若葉色のドレスを身に纏った女性が、首に真っ赤な花の輪をひっかけた子供を数人連れて、舞台に現れた。女性の自己紹介が終わると、まずはじめに、男の子ひとりと女の子ひとりが舞台にが上がった。男の子は白いシャツに半ズボンという、シンプルな服装であったが、女の子のほうはというと、眩しいオレンジのスカートのようなものをはき、頭には鳥の羽のような、細長い花のようなものを挿し、とても派手ないで立ちであった。軽快な音楽が流れ始めると、二人は踊り出した。女の子はとても笑顔なのだが、男の子は少し恥ずかしそうである。二人の踊りが終わると、次は、その男の子と女の子に、あと二人女の子が加わった。皆、両手には薄茶色になった竹のような楽器を持っており、片方のそれは細かく割かれている。これまた軽快な音楽が流れると、四人一斉に両手のそれを打ち付け合い、シャンシャンともカンカンともいえぬ音を出しながら、左右に揺れる。ときどき、それを体に当てながら、ひたすら音を出し続けた。曲が終わると、ようやく、女性が踊る番が来た。
 女性はその踊りの先生らしい。踊り終えた子供たちを褒めながら、その踊りについて軽く解説してくれた。踊るときの手は手話の役割を果たすらしい。後ろで流れている音楽は、その踊り発祥の地の言葉らしいが、練習するにつれて、だんだん分かるようになるとのこと。いよいよ踊りが始まる。
 音楽が流れると同時に、女性の体がわずかに浮いた。腰のあたりから、ふわりと体が浮いたのである。それに続いて女性はしなやかに腕を上に伸ばし、まるで日の光を求めているようであった。何かを懇願しているようにも見える。その両腕はまるで朝日を浴びながら水を飲む白鳥のつがいのようであり、荘厳さを振りまいていた。そのまま両腕を横に伸ばし、肘を曲げ、手の平を胸の前にもってくる。均整のとれた、ズレの無い動きは、スローモーションで見る蝶の羽ばたきのようである。腹の底にぐっと何かをねじ込まれるような感覚にたびたび襲われる。これは何だろう。必死に考え、ようやく答えが出た。筋肉の線。もしくは筋肉の影である。女性が踊る度に血が駆け巡り、膨れる、腕の筋肉の線が、とても美しいと感じた。まっすぐな線ではなく、わずかに丸みを帯びた線。水平線のような筋肉。それが現れる度に、こちらも腕に力が入りそうな勢い生まれるのである。  
 さっきからずっと、女性の体は宙に浮いている。すると女性は右に揺れ、左に揺れた。そこで俺は何者かに頭を殴られた。殴った人間の姿は見ていない。しかしおれは殴られたのだ。殴られでもしなければ、今あそこで踊っている女性が3人も見えるわけがないではないか。小さく揺れたと思うと、大きく揺れる。大きく揺れたと思うと、小さく揺れる。女性が分裂し、一つになり、また分裂し、また一つになる。灯篭の中で揺れる火を見ているような気分になり、しばらくぼうっとしながら踊りを見ていた。音は聞こえる。人の声も聞こえる。しかし意味はわからない。その聞こえているものが何を意味しているのか、さっぱりわからない。そんな経験はないだろうか。自分がここに座っていることすら怪しくなるほど、自分の存在が霧のように消えかけているような状態。そんな状態で、俺は目の前にぼんやり消えたり現れたりする、揺れるなにかを感じていた。
 動きが止まり、その体を二つに折ったことで、踊りが終わったことに気付いた。次が最後の踊りである。この踊りの中に、二つの幸せを見出すことができた観客はどれほどいただろうか。
 女性の解説によると、最後の踊りは、有名なアニメ映画の踊りらしい。「この中で〇〇〇(アニメ映画の題名)、見た人いますか?」と女性がたずねると、さっきから俺の左横ろうろしていた女の子は忙しそうな足をぴたりと止め、ぐるりとこちらを振り返った。その表情は、さっきまでの興味なさそうな顔とは全く違う、生気に満ちあふれ、喜びで爆発しそうな様子であった。最後の最後で、この女の子と舞台がつながった瞬間である。その瞬間を祝うかのように、それまで前方に座っていた観客たちが一斉に退き、女の子の前に誰もいないという奇跡が起きた。すると、同じ服を着た二つ結びの女の子が、後ろからその女の子に向かって走ってきた。体の大きさから見て、その子の妹だろう。笑顔で飛び跳ねる姉妹を見た女性は、一番前に座ることを勧めた。姉妹は少し照れながら、二人でぴったりとくっついて座った。その小さな背中から、幸せの波が立っていた。
 最後の踊りが始まる。先ほどまでの踊りと異なり、激しく腕を振り、揺れも小刻みになるような踊りであった。最後は踊り手全員で踊っていたが、ふと気がついた。右後ろの女の子の視線が皆と少しズレている。なぜだろう。集中力が切れたのだろうか。たしかに、いくつも踊りをした後で締めの踊りがこれならば、体は悲鳴をあげているのかもしれない。しかしそんな様子ではない。何かを探している。すると突然、女の子の視線が一点に定まった。そして女の子はわずかに口を動かした。思わず、つい、という表情であった。もちろん聞こえはしなかったが、なるほど。「ママ」と言ったのか。すっかり笑顔になったその女の子の視線の先で、右手に小さなカバンを二つ持って、小さく左手を振る母親の姿があった。すると、俺の右前に座っていた男の子がそのカバンを取りに行った。この子は弟か。隣の父親も嬉しそうである。
 踊りも終わりライブの全てが終了したあと、踊り手の子供たちが着替え、俺たちの後ろを走り去っていった。ワンピースの姉妹は踊り手の子供たちとは反対方向に手をつないで歩いていった。踊りの子供たちと姉妹が次に出会うことがあるかどうかは分からない。今日のことなど次の日には忘れてしまっているかもしれない。忘れてしまっていてもいいから、また彼らが黄金市場のあの大通りを歩いてほしいと思う。そこで、気付かぬうちにすれ違っていてほしいとも、思う。

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