2019年7月22日月曜日

叩けチクワ

 チクワは躊躇した。激しく両手のつぶれた豆が痛み、一週間後の本番で叩けるのだろうかと懸念した。チクワには小倉祇園の叩き方がわからぬ。チクワは、鳥取の百姓である。稲を刈り、週一回うどんを打ち、そして、ドラムをたたいて暮らしてきた。太鼓のリズムには人一倍敏感であった。
 祇園の太鼓は全く違う。チクワの叩く西洋生まれの太鼓は、椅子に座り両足両手を使い、金物まで細い棒にて一人で叩く。対して、祇園の太鼓は一つの山車で四人が歩きながら、同時に叩く。しかも、主旋律と副旋律の二種類のパアトがある。チクワには、副旋律のフレエジングがたまらなくツボであった。どどん、どどん、と、単調な主旋律に合わせて、ど、ど、どど、どど、どん、どん、と変化に富んだ副旋律が合わさる。遠くからきく分には、相変わらずどどん、どどん、と単調なリズムであるが、近くで聞くと副旋律の生み出すアクセントが、なんとも言われようなくたまらない。
 チクワには、副旋律の叩き方がわからぬ。チクワは、今回が初めての小倉祇園である。これを叩くには何年か経験がなければならぬ。けれど、それでも楽しかった。
 結局、練習には二回しか出なかった。

 今年の小倉祇園は3日間とも金ではなく雨に降られた。どちらにせよ、何かしら降るようである。雨でよかったとつくづく思う。
 初日は、旦過から魚町商店街の中をぐるぐる廻る。人が四、五人横並びで歩けばいっぱいの狭い路地を山車が通る。往来人は立ち止まるか横をササっとよけて通る。大きな音を出しながら人の波をかき分けてあるく。なんとも言われようなくたまらない。太鼓の叩き手は、往来人に腕が当たらぬよう叩く。なるほど、旦過の叩き方は、腕が体の幅から横にはみ出ないよう、かつ、大きく見せる振り付けであった。

叩き手:大學堂+αと、カメラマン
 
休憩をはさみ、旦過に戻る。カレエライスがおいしかった。

 二日目、三日間でもっとも雨が降った。この日、チクワは小倉で太鼓を叩いた。太鼓は太鼓でも、西洋生まれの太鼓である。小倉の街中では祇園太鼓による雲を割るような轟音が響き、こちらは、エレクトリツクなインストウルメントによる、地割れのような轟音がライヴバアを揺らした。

 三日目最終日。もう雨なんて気にもしなかった。旦過と魚町の間の大きな道路を封鎖し、信号機まで停止し各町の山車がそこに集結した。まわり太鼓が始まった。

小倉場側(伝われ~)

モノレール側(伝われ~)

 壮観である。そして、スピイカアから開会式だの、テープカットだの何やら声がする。今年は小倉祇園が400周年であるという。そして、重要無形民俗文化財に登録されたという。おめでたい。おめでたいのだが、ここ数年文化財に登録されるに向けて色々なことが厳しくなり、面白みがなくなったと、言っている人もいた。チクワは初めてなので、何とも言えないが。
 このまわり太鼓では、オオデイエンスにも祇園太鼓を体験できる。スピイカアから、「皆さん楽しんでますでしょうか~」と聞こえる。

こんなちっちゃい子も

 小倉祇園太鼓は地域民でも外の人でも、かなり開かれた芸能のようで、休憩中に観光客に叩かせてあげるということもよくしていたらしい。しかも、町どうしで喧嘩していたとしても、この日になると、喧嘩は解決することもよくあったらしい。へえ。

 徐々に雨が強くなってきた。そこで、ついに山車が動き出す。気づいた時にはもう全身びしょぬれである。けれど、声を出し、山車をひき、太鼓を叩く。夢中で歩き、夢中で叩く。雨で法被が濡れ、自分が法被なのか法被が自分なのか、はたまた雨粒が自分なのか、雨粒により体が形作られてくような、外界と身体が溶け合うような心地がする。そのときである。
 「雨の中、皆さん頑張って叩いてくれています!」
 例のスピイカアである。途端に、急に肌寒さを感じた。雨粒のしたたかに体を打つ感覚が蘇る。

 チクワは激怒した。必ず、かの声の主をこの眼で覗かなければならぬと決意した。チクワには、小倉祇園がいかなるものかよくわからぬ。チクワは鳥取の百姓である。けれども、「頑張って」とは、なんであろうか。「叩いてくれています」とはなんであろうか。われわれは、見世物なのであろうか。誰のためにと訊かれたら自分のためである。少なくともチクワはそのつもりであった。ぎょろぎょろとあたりを見回す血走った眼
 声の主は、ついぞ姿を現さなかった。

 役所で一度休憩し、屋台の間、人の海をかき分け街を闊歩する山車は、旦過の丸和前に止まり、22:00まで叩き続けた。

屋台がたくさん。売れるだろうな~。


 百姓の胸には心地のよい太鼓の響きと、甘いカレエライスの香りだけが残った。

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